アッシュル・シャドゥニ
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(アッシュール・シャドゥニから転送)
アッシュル・シャドゥニ | |
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アッシリア王 | |
在位 | 前1454年頃(1ヶ月間) |
父親 | ヌル・イリ |
アッシュル・シャドゥニ(Aššur-šaddûni、または-šaduni[1]。maš-šur-KUR-ú-ni[i 1]/[maš-šur-K]UR-u-ni[i 2]、「アッシュル神は我らが山[2]」)は「一ヶ月間[3](1 UTU UD.MEŠ-te[4])」だけアッシリアを統治した君主。在位は前15世紀半ばであり、『アッシリア王名表』において第64代の王として登場する。父ヌル・イリの地位を継承したが、おじであるアッシュル・ラビ1世のクーデターによって追放された。
来歴
[編集]アッシュル・シャドゥニの後に続く2人のアッシリア王の在位期間が不明であるため、彼の編年は強固に確立されている『アッシリア王名表』後半部の王たちの編年と切り離されており、その王位継承の年次は不確実性が残る[5]。アッシュル・シャドゥニとその前後の王の同時代碑文は現存していないが、彼の名前は『アッシリア王名表』のバージョンのうち2つ(『コルサバド王名表』『SDAS王名表』)に登場し、また『対照王名表(Synchronistic Kinglist)[i 3]』の最初の列の終わり、カッシート王朝のバビロン王カシュティリアシュ3世の後継者の1人が入ると想定され得るであろう位置と同じ階層に、かすかに残されている[3]。
『アッシリア王名表』は彼の地位が失われたことを次のように説明している。「ina GIŠ.GU.ZA ú-šat-bi GIŠ.GU.ZA iṣ-bat, 「(アッシュル・シャドゥニ)は王座から、彼は除かれた。王座を彼(アッシュル・ラビ)が奪い取った[4]。」
記録
[編集]- ^ Khorsabad Kinglist tablet IM 60017 (excavation nos.: DS 828, DS 32-54), ii 43.
- ^ SDAS Kinglist, tablet IM 60484, ii 32.
- ^ Synchronistic Kinglist, Ass 14616c (KAV 216), i 25'.
脚注
[編集]- ^ šadû q CAD š 1 p. 58.
- ^ E. Frahm (1998). K. Radner. ed. The Prosopography of the Neo-Assyrian Empire, Volume 1, Part I: A. The Neo-Assyrian Text Corpus Project. p. 215
- ^ a b A. K. Grayson (1972). Assyrian Royal Inscriptions, Volume 1. Otto Harrassowitz. pp. 37–38
- ^ a b I. J. Gelb (1954). “Two Assyrian King Lists”. Journal of Near Eastern Studies 13 (4): 212, 226.
- ^ Margaret S. Drower (1973). “Syria, c. 1550–1400 BC”. In I. E. S. Edwards; C. J. Gadd; N. G. L. Hammond et al.. The Cambridge Ancient History Volume 2, Part 1: The Middle East and the Aegean Region, c.1800-1380 BC. Cambridge University Press. p. 443
先代 ヌル・イリ |
アッシリア王 前1454年頃 |
次代 アッシュル・ラビ1世 |