私は女
「私は女」 | ||||||||
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ヘレン・レディ の シングル | ||||||||
初出アルバム『I Am Woman』 | ||||||||
B面 | More Than You Could Take | |||||||
リリース | ||||||||
規格 | 7インチ・シングル | |||||||
録音 | ロサンゼルス、サンウェスト・レコーディング・スタジオ(1972年) | |||||||
ジャンル | ポップ | |||||||
時間 | ||||||||
レーベル | キャピトル・レコード | |||||||
作詞・作曲 |
ヘレン・レディ レイ・バートン | |||||||
プロデュース | ジェイ・センター | |||||||
チャート最高順位 | ||||||||
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ヘレン・レディ シングル 年表 | ||||||||
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「私は女」(I Am Woman)は、ヘレン・レディが1971年に発表した楽曲。翌1972年に再録音されたバージョンが全米1位を記録した。
女性の社会的地位の向上(Women's empowerment)を強く訴える内容から、第二派フェミニズムにおけるウーマン・リブ運動の讃歌となった。
概要
[編集]オーストラリア出身のヘレン・レディは1960年代末にロサンゼルスに渡り、キャピトル・レコードと契約。1971年1月にリリースしたシングル「I Don't Know How to Love Him」はビルボード・Hot 100で13位を記録した。シングルのヒットにあわせてアルバムも制作することとなる。レオン・ラッセルやヴァン・モリソン、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなど大半がカバーであったが、2曲はレディとオーストラリア出身のギタリスト、レイ・バートンとの共作であった。レディは次のように回想している[3]。
ショービジネスでは女性は常に物として扱われてきた。喜劇俳優のオープニングアクトを務めると、舞台から去るときなどに決まってこう言われる。「よし。服を脱いで楽屋で俺を待ってな。すぐ戻るからな」。そうした扱いを公にすることで、すべての女性に屈辱を与え、その品位を傷つけてきた。
女であるとはどういうことか。それを言い表している曲で、私の考えに合致するものは当時見つからなかった。頭にあったのは、大恐慌やら世界大戦やら酔っ払った夫の虐待やらをくぐり抜けた、私の家族にいるあの強い女性たちだった。しかしそういった事柄を反映するものは、音楽の世界にはどこにもなかった。例外は「I Feel Pretty」とあのおぞましい「Born a Woman」だけだった。両曲とも厳密には女性を力づけるような内容ではなかった。私は自分をソングライターとは全く考えてなかったが、結局曲を書かざるを得なくなった。
レディによれば、歌詞はある夜突然インスピレーションが湧いて生まれたという。彼女は翌日、The Executivesというロックバンドのメンバーだったオーストラリア出身のレイ・バートンに歌詞を渡した。バートンによれば3時間ほどで曲は完成し、メロディに合わせるために歌詞はいくつか手直しされた。「私は女」は、二人の共作であるもう一つの曲「Best Friend」とともに1971年5月発売のファースト・アルバム『I Don't Know How to Love Him』に収録された[3]。
1972年に再レコーディング
[編集]レディは「私は女」をヒットするようなシングルともラジオ向きの曲とも考えていなかったが、コンサートでは最初の曲に必ず選んでおり、ファンからも好評だったという。そんな頃、ウーマン・リブ運動を題材にした映画『Stand Up and Be Counted』(1972年5月公開)のオープニング・クレジットに使われることが決まった。キャピトル・レコードは万が一映画がヒットしたことを考えて、シングルとして発売することを決定[4]。オリジナル・バージョンは2分15秒しかなかったため、再録音されることとなり、レディは歌詞を付け加えた。ロサンゼルスのサンウェスト・レコーディング・スタジオにリーランド・スカラー、ジム・ゴードン、マイク・ディージーなど腕利きのミュージシャンが集められ、ジェイ・センターのプロデュースの下、レコーディングは行われた。
1972年5月、シングルとして発売[1]。B面はセカンド・アルバム『Helen Reddy』に収められていた「More Than You Could Take」。
同年12月9日付のビルボード・Hot 100で1位を記録した[5]。オーストラリア出身の歌手/ミュージシャンが同チャートの1位を獲得するのは初めてのことだった。そのほかイージーリスニング・チャート2位、オーストラリア2位、カナダRPMで1位、キャッシュボックス誌で1位を記録するなど大ヒットとなった。同年11月発売のアルバム『I Am Woman』に収録された。また、第15回グラミー賞でレディは「私は女」により、最優秀女性ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞した。
シングルが出た1972年は、グロリア・スタイネムが雑誌『Ms.』を創刊し、オーストラリアでも『Cleo』が創刊され、女性解放運動がちょうど高まっている頃だった。1973年に全米女性組織(National Organization for Women)の年次大会がワシントンD.C.で開催されたとき、夜のイベントで「私は女」が演奏された。このときのことを組織の設立者、ベティ・フリーダンは次のように書いている[6]。
突然女たちは椅子から立ち上がり、宴会場で踊り始め、そして一つの輪になって手をつなぎ始めた。輪はどんどんと大きくなり、おそらくは千人規模の人々が踊り、歌っていた。「私は強い、私は打ち負かされることはない、私は女だ」。当時私たちは「女が女として行動している」という高揚感があったが、その日起こったことは私たちの高揚感の自発的で、美しい発露だった。
2010年に開催された第82回アカデミー賞でキャスリン・ビグローが女性初の監督賞を受賞したとき、本作品のインストゥルメンタル・バージョンが演奏された[7]。
演奏者
[編集]- ヘレン・レディ - ボーカル
- マイク・ディージー - ギター
- リーランド・スカラー - ベース
- マイケル・メルヴォイン - ピアノ
- ジム・ゴードン - ドラムズ
- ジム・ホーン - 木管楽器、ストリングスとホーンの編曲
- ディック・ハイド - トロンボーン
- ドン・メンザ - サックス
- キャシー・ディージー - バッキング・ボーカル
- クライディ・キング - バッキング・ボーカル
- ヴェネッタ・フィールズ - バッキング・ボーカル
- シャーリー・マシューズ - バッキング・ボーカル
カバー・バージョン
[編集]- ベティ・ライト - 1973年のアルバム『Hard to Stop』に収録[8]。
- デビー・バーン - 1975年のアルバム『She's a Rebel』に収録。
- アニタ・ハリス - 1976年のアルバム『Love to Sing』に収録。
- サラ・ジェシカ・パーカー、キム・キャトラル、クリスティン・デイヴィス、シンシア・ニクソン - 2010年公開の映画『セックス・アンド・ザ・シティ2』で歌う。
- ステラ・パートン - 2016年アルバム『Nashville Nights』に収録。
脚注
[編集]- ^ a b 45cat - Helen Reddy - I Am Woman / More Than You Could Take - Capitol - USA - 3350
- ^ Helen Reddy - I Am Woman (1972, Winchester Pressing, Vinyl) | Discogs
- ^ a b "The Anthem and the Angst", Sunday Magazine, Melbourne Sunday Herald Sun/Sydney Sunday Telegraph, June 15, 2003, Page 16.
- ^ Reddy, Helen (2006). The Woman I Am: A Memoir. Penguin Group. p. 145. ISBN 1-58542-489-7.
- ^ 1973 Archive | Billboard
- ^ Friedan, Betty (1976). It Changed My Life: Writings on the Women's Movement. Random House, Inc., p. 257 ISBN 0-674-46885-6
- ^ “Kathryn Bigelow Wins Best Directing: 2010 Oscars”. Oscars (2010年3月11日). 2020年12月20日閲覧。
- ^ Betty Wright - Hard To Stop (1973, MO - Monarch Pressing, Vinyl) | Discogs
関連項目
[編集]先代 テンプテーションズ 「パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン」 |
Billboard Hot 100 ナンバーワンシングル 1972年12月9日(1週) |
次代 ビリー・ポール 「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ」 |