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マキシム・シャピロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マキシム・シャピロ
Максим Шапиро
別名 Maxim Schapiro ; Maxim Shapiro
生誕 1885年1月1日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サラトフ県英語版サラトフ[1]
死没 (1958-07-19) 1958年7月19日(73歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シー[1]
学歴 モスクワ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業

マキシム・シャピロ(Максим Шапиро, 1885年1月1日 - 1958年7月19日)はロシア出身のピアニスト、ピアノ教師[2]1927年から1939年まで日本で活動した白系ロシア人である[3]

経歴

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サラトフに生まれ、モスクワでコンスタンチン・シャピロとともに育つ。モスクワ音楽院ニコライ・メトネルピアノを師事した。1917年ロシア革命後、ドイツに亡命[4]ベルリンでピアノを指導したリディヤ・チェルネツカヤは後にコンスタンチン・シャピロの妻となった[5]。マキシムはチェリストのJane Eddyを妻とした[6]

ハルビンを経て、コンスタンチンとともに1927年に日本に移住。1930年にリディア・シャピロとともに映画『藤原義江のふるさと』にピアノ伴奏者として出演した。1933年に大阪音楽学校(現在の大阪音楽大学)特別専門科ピアノ科教授に就任[7]。教え子に属澄江甲斐美和子小園登史子[8]がいる。

1939年に教え子の甲斐美和子とともにアメリカ合衆国に渡った[4][9]1958年カーメル・バッハ・フェスティバル英語版に出演した際のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲ピアノ協奏曲第26番『戴冠式』演奏中に心臓発作で倒れ、病院搬送中に亡くなった[10][6]。本人の希望により遺灰が日本にまかれた[6]

親族

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脚注

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  1. ^ a b Kehler 1982.
  2. ^ 萩谷 2016, pp. 68. - 萩谷はマキシム・シャピロについて「実は故国では経済学者だった」としている.
  3. ^ 音楽年鑑 1941, p. 170, マキシム・シャピロ.
  4. ^ a b c Shapiro 2009, pp. 29–30.
  5. ^ Shapiro 2009, p. 69.
  6. ^ a b c Maxim Shapiro Dies During Carmel ConcertSausalito News, Volume LXXIII, Number 30, 26 July 1958
  7. ^ 1931年 - 1945年”. 大阪音楽大学について. 大阪音楽大学. 2020年3月16日閲覧。
  8. ^ 音楽年鑑 1941, p. 159, 小園 登史子.
  9. ^ 萩谷 2016, pp. 68–69, 290–292.
  10. ^ Thomson 2014.
  11. ^ One Man's Youth As A 'Stateless Foreigner' In Japan During World War IIwbur March 22, 2018

参考文献

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  • 音楽年鑑』 昭和16年度、大日本音楽協会、1941年、170頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11094572020年3月16日閲覧 
  • Kehler, George (1982). The piano in concert. 2. Metuchen, New Jersey: The Scarecrow Press. p. 1151 
  • Shapiro, Isaac (2009). Edokko: Growing Up a Foreigner in Wartime Japan. New York: iUniverse. ISBN 978-1-4401-4126-3 
  • Thomson, Virgil (2014). “Maxim Schapiro”. In Page, Tim. Music Chronicles 1940-1954. Library of America Series. 258. New York: Library of America. ISBN 978-1-59853-309-5 
  • 萩谷由喜子『クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト』ヤマハミュージックメディア、2016年4月10日。ISBN 9784636928303