半井驢庵
半井 驢庵(なからい ろあん)は、室町時代から江戸時代にかけて、医家の半井家のうち、半井明親の子孫が代々称した名。半井驢庵家は、江戸幕府において奥医師の長(典薬頭)を今大路道三家(今大路家は曲直瀬道三の末裔)とともに務めた。
歴代
初代 明親
「驢庵」を称した初代である半井明親は、室町時代後期の人物で[1]、典薬頭を務めた和気(半井)利長の子。
明に渡航して時の正徳帝(武宗)の診察にあたり、銅硯1面と驢馬2頭を与えられた[1]。日本への帰国後、驢馬1頭を後柏原天皇に献上[1]。明の官服を着て驢馬に乗って参内することを許されるとともに、「驢庵」の称を与えられた[1]。
2代 光成(瑞策)
2代驢庵は、初代驢庵(明親)の二男[2]。諱は光成、号は瑞策[3][4]。正親町天皇より『医心方』30巻と通仙院の院号を与えられた[3][4]。
3代 成信
3代驢庵は、2代驢庵(瑞策)の子で、諱は成信、号は瑞桂・任世翁[5]。徳川家康や徳川秀忠に薬を調進した[5]。また、勅命により深黒の素絹を着用することを許された[5]。寛永15年(1638年)、京都で没した[5]。
4代 成近
4代驢庵は、3代驢庵(成信)の孫で、諱は成近、号は瑞寿[5]。祖父から家督を譲られ(父[注釈 1]は祖父に先立った)[5]、寛永元年(1624年)に江戸に召し出され[5]、寛永9年(1632年)に相模国高座郡で1000石の知行を与えられた[5]。徳川家光に仕え、一時勘気を被って奥医師から外されたが[6]、後に許されて復帰し、寛永16年(1639年)には家光の命を受けて京都に派遣されて東福門院の治療にあたった[6][5]。久志本常尹と交互に朝廷に勤仕するよう命じられ、祖父の遺領であった山城国愛宕郡内500石も合わせて1500石を知行するが、同年に京都で没した[5]。
知行地の高座郡本郷村(現在の神奈川県海老名市本郷)には屋敷が設けられ[7]、付近には「驢庵坂」などの地名が残る[7]。同地には4代驢庵(成近)が植えたとされるハルニレの木が現存する(有馬のハルニレ)[7]。
5代 成忠
半井成忠は成近の子[5]。驢庵瑞成、のちに通仙院瑞堅と称した[5]。寛永17年(1640年)に幕府から暇を得て京都に赴き、天皇を診察した[5]。『寛政譜』には「これよりのち代々この事をつとむ」とある[5]。
6代 達時
7代 成明
半井成明の父は、館林藩(徳川綱吉)に仕えた半井益庵頼路[8]。母は同藩に仕える半井宇庵某の娘[8]。成明ははじめ宇庵を称した[8]。達時の婿養子となって驢庵を継ぐ[8]。号は瑞英[8]。
8代 成庸
半井成庸は成明の婿養子[8]。藤堂良起の三男[8]。驢庵を継ぎ、瑞閏と号する[8]。
その後
成庸の子・半井成高は典薬頭となるが、『寛政譜』では「驢庵」を称したとは記されていない[8]。成高の子で、『寛政譜』編纂時の当主である半井成美についても同様である[9]。
半井成美は寛政2年(1790年)、家蔵の『医心方』についての幕府の問い合わせに対して「前後ふつつか」な言上を行い、さらには先年の火災で焼失したと報告したことについて、職務がおろそかであると咎められ、出仕停止処分を受けている[10]。これは、半井家が門外不出とした『医心方』の借覧と写本製作を目指した奥医師多紀家との攻防の一幕である。半井家#医心方(半井家本)参照。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d “半井明親”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年7月19日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.610。
- ^ a b “半井瑞策”. 朝日日本歴史人物事典. 2023年7月19日閲覧。
- ^ a b “半井瑞策”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.611。
- ^ a b “半井成近”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年7月19日閲覧。
- ^ a b c “えびな歴史めぐり【3】海老名の武将 〜半井驢庵〜”. タウンニュース 海老名・座間・綾瀬版 (2019年12月20日). 2023年7月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.612。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.612-613。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百七十九「半井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.613。