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共同荷物検量所

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共同荷物検量所 (きょうどうにもつけんりょうじょ) とは1907年(明治40年)10月1日に日本郵船株式会社大阪商船株式会社両社の協定により創立した日本初の組織的検量機関である[1]

概要

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江戸時代の中ごろから菱垣廻船樽廻船など江戸と大阪を結ぶ定期の航海が始まり、さらに大阪と北海道を結ぶ北前船へと発達して廻船問屋、すなわち今日でいうところの海運業が始まった。この時代から運賃収入の目安をたてる船積貨物の検量が必要となってきたが、当時の貨物は米、酒、木材、肥料などが多く、いずれの貨物も米を中心とした石建で運賃が取り決められていた。そのため船頭手代が積荷の個数さえ数えておけば、検量をしなくても問題なかった。

明治に入り海運業が盛んになると、交通輸送量に対して過剰な数の汽船会社が乱立したため競争過多で経営難に陥る会社が続出した。運賃決定について、正確を期する必要に迫られ、信用のある厳正な検量が必要となったが、検量は集荷場の便宜を阻むものとしてすぐには実現しなかった。当時の運賃は船会社の係員が荷主と立ち会って現品を調べ、協定トン数を談合によって決めてそこから計算していた。同時期の英国等では運賃協定の同盟が結成されており、すでに船会社が選定した検量人が専門的に正しい検量を行っていた。

日露戦争後、外国汽船の出入りが頻繁になると、1906年(明治39年)には欧州復航運賃同盟の指定検量人として英国船長スマートが神戸で中国人を雇い、検量業務を始めた。その後まもなく船長スチーブンが神戸と同様に横浜で検量を始めた。

同時期、当時日本の二大船会社であった日本郵船及び大阪商船は台湾及び朝鮮航路での集荷競争を行った結果、談合によって取り決めた協定トン数が常に実際よりはるかに小さくなり、運賃収入も厳しいものとなった。また、正しく検量を行っていなかったので貨物に対して船腹が不足し、積み残しが多く出てきた。このような害に苦悩したため、正式な検量の実施を痛感したが、当時信頼できる検量機関や検量経験のあるものがいなかったため、試験的に明治40年に入ってから郵商両社の協調で辰馬汽船元船長の服部猪熊に検量所を開設させた。この検量所では郵商両社の内航船の貨物検量業務から開始したがその成績は見るべきものがあった。

そこで両社は従来の慣行を打破し、積荷トン数の妥協決定と不徹底の自社検量を廃止し、海運経済の合理化を期待して全公開に渡って厳正な検量を実施するべく1907年(明治40年)10月1日に「日本郵船株式会社・大阪商船株式会社共同荷物検量事務所」の名称のもとに大阪・神戸にて台湾及び朝鮮航路の検量を開始した。その後、この「郵商共同荷物検量所」は下関、横浜、東京、名古屋に開設された。1917年(大正6年)11月により組織的な一丸組織を目標に同検量所は発展的に解散され神戸を中心とした「共同荷物検量所」に再組織された。郵商の冠称を取り除いたのを機に郵商以外の各船会社の検量も積極的に行えるようになった。

こうした状況の中、1917年(大正6年)共同荷物検量所と日本海事組合との間に合併の機運が醸成され、1918年(大正7年)12月共同荷物検量所は日本海事組合と合併した。

脚注

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出典
  1. ^ 『五十年史』日本海事検定協会、1964年2月11日、11頁。 

関連項目

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