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野口陽一

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野口 寅次郎(のぐち とらじろう、本名:野口 陽一(のぐち よういち)、1950年3月7日 - )は、日本お笑い芸人東京都新宿区生まれ。

人物

NTTの関連会社勤務の傍ら、「5時から芸人」、「サラリーマン芸人」と称して、ものまね漫談を披露していた。現在は寅さんのものまねを中心に活動をしている。ボーイズバラエティ協会所属[1]。元東京都ヘブンアーティスト[2]東京善意銀行会員。血液型はAB型。別名義に「野口よういち」がある。

芸風

おそらく、史上最も似ていない寅さん芸人である。顔も声も、渥美清さんとは全く似ておらず、小道具で眉間のほくろを付ける事もせず、ただ単に、衣装のみ寅さんのコスプレをし、口上を述べるだけである。当然、それでは他の寅さん芸人とは勝負にならない。そこで野口は、現実の世界で寅さんに成り切ろうとしたのである。寅さんの格好で柴又を歩き、柴又に転居し、帝釈天の檀家になり、山田洋次監督ら作品関係者に近づき、寅さんの格好で全国のロケ地も歩いた。そしてついには自らを「寅次郎」と称したのである。結果、どうなったか?野口を見慣れた帝釈天参道周辺においては、「野口こそ寅さんだ」というような集団催眠のような事が起こってしまったのである。しかし、帝釈天周辺から一歩足を踏み出せば、「全く似てもいないよそ者が、”寅次郎”を名乗って柴又で甘い汁を吸うとは何事だ」という至極当然な批判に変わるのである。また、この事が原因で、後述のようなトラブルも起った。これは「芸」なのか、「迷惑な自己満足の成り切りパフォーマンス」なのか、評価が別れている所である。

来歴

芸人デビュー

埼玉県立与野高等学校を卒業し、大学に入るため浪人するが2浪して諦め、フリーターを経てNTTグループ関連会社に就職する。芸人を目指したのは、1979年4月に声帯模写の桜井長一郎が主催者であり、上野本牧亭で行われた第1回おおむの会のものまねコンテストでグランプリを獲得したことに始まる。1980年4月上野鈴本演芸場で行われていた牧伸二漫談教室に入門した。

その後、テレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」に出演し、テニスプレーヤーのジョン・マッケンローをもじった「マッケンジョー」の芸名で、ラケットを片手にものまねコントを披露することになったが緊張のあまり酒を飲み、ネタを忘れて、司会の横山やすしに激怒された。その後しばらく充電期間となり、その間、筑波サーキットの自動車レースにレースクィーンなどをプロモートしていた。当時のレースクィーンは、ハイレグでなく、テニスウェアであった。1993年5月に「お笑いのぐち組」を結成し,1995年11月より、同メンバーらと江東区の「つるの湯 銭湯寄席」を開始する。また当時、柴又帝釈天の鳳翔会館で庚申の日(60日に一回の縁日)に行われる「柴又こうしん演芸」の創始者にもなっている。

車寅次郎のモノマネでブレイク

1997年2月ゆうばり映画祭「寅さんなりきりコンテスト」で準優勝した。1996年8月より週末(毎月第2・第4土曜日)に行っている「柴又寅さんガイド」では、「男はつらいよ」の寅さんになりきって柴又のボランティアガイドを今日まで続けており、こうした活動に対して、2002年渥美清七回忌追悼献花式において山田洋次から、直々に感謝状を手渡されている。これによりガイドや参道店舗、地元の方から信頼されている。  また2002年には、プロ芸人集団「ボーイズバラエティ協会」へ入会が許可され浅草東洋館新宿末広亭の寄席に出演を開始し、積極的に寅さんのものまねを通してメディアに出演している。2007年から2008年にかけて、ANAスカイホリデーのツアー企画「寅さんを演じる感動案内人とゆく柴又散策」で感動案内人として柴又の案内をする[2]。2007年頃に、柴又帝釈天の節分祭における力士などと共に、豆まきのメンバーに選ばれ、以後毎年豆まきのメンバーとして参加している。2009年、映画「アニと僕の夫婦喧嘩」に出演した。

2013年1月、芸名を「野口寅次郎」に改めたことを記念して、上野広小路亭において襲名披露公演を行った。2012年11月から2014年4月にかけて、東日本大震災による東北の被災地復興支援チャリティとして、都電荒川線の電車一両を貸し切って、電車内での「都電ライブ」公演を5回にわたり行った。2014年1月26日、柴又帝釈天において文化財防火デーのイベントとして、一日寅さん消防所長を務め、その後も毎年消防隊長を務めている。2015年1月には、お江戸日本橋亭において「新春寅さん早朝寄席」公演を行った。2015年より、毎月10日(フーテンの日)の寅さんの日に「寅さんファミリー(リリー、さくら、博、おいちゃん)」と共に帝釈天参道において、アピールしている。

近年の活動

2018年、週間「FLASH11月20日号に当時の片山さつき大臣と「大臣はつらいよ」の記事でツーショット写真が掲載される。また2019年には、週間「エコノミスト」問答有用(聞き手:大宮知智信)に物まね漫談家として掲載された。同年10月29日文化放送大竹まこと ゴールデンラジオ!」の番組中「大竹発見伝」において「寅さんのいる町柴又」で取り上げられ活動と略歴が紹介される。同年11月8日金町消防署において「文化財防火デー、一日寅さん消防隊長」を10年勤めたことに対して、消防所長から表彰を受ける。

2019年10月、柴又6丁目の自宅兼事務所一室をセミナー室として開放し寅さんの心を学び、またお笑いや物まねを志すファンのために「お笑い寅さん塾」(塾には参加会費が必要です。)を開催している。毎月10日(フーテンの日)及び第2、第4土曜日午後に10名程度の参加がある。2020年、東京都の新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の要請で、同年4月から5月にかけて「お笑い寅さん塾」や、帝釈天参道における寅さんガイドを自粛している。

2021年1月31日,コロナ禍の中、柴又の老舗「川甚」の閉店」に駆けつけ、寅さん映画の第1作妹さくらの結婚式の舞台であったとの、コメントが、マスコミに取り上げられ,寅次郎の名が、マスコミにますます取り上げられることとなった。

問題点

・2020年、映画「男はつらいよ」が好きで柴又に越して来た人物(S氏)と、寅さんのオープニングオマージュ動画を撮影したが、野口は後から約束になかったギャラを恐喝まがいの口調で要求し、問題となっている。

・上記の野口の行動に不信感を持ったS氏が、撮影前に野口から聞かされた、「山田洋次監督公認」「帝釈天の御前様から”寅次郎”の名を授かった」という点について事実確認をした所、松竹、帝釈天ともに野口の主張を否定した。

・インターネット上には他にも、野口が「山田洋次監督公認」「松竹公認」等の文句を謳って営業活動していた痕跡が見られ、問題となっている。

脚注・出典

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