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家根祥多

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やね よしまさ

家根祥多
生誕 1953年6月9日
死没 2001年4月20日
国籍 日本の旗 日本
出身校 京都大学大学院文学研究科博士課程中退
職業 考古学者
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家根祥多(やね よしまさ、1953年6月9日-2001年4月28日)は、日本考古学者立命館大学文学部教授

来歴

1953年6月9日、兵庫県神戸市東灘区に生まれる。1983年に京都大学大学院文学研究科博士課程中退。1983年から帝塚山大学教養学部助手を経て、1985年から京都大学研修員。その間1986年から1988年までドイツ(当時西ドイツ)のボン大学留学。その後、立命館大学文学部助教授1996年から同教授を務めた。2001年4月28日逝去。

主な業績

縄文時代晩期土器編年

滋賀県滋賀里遺跡出土資料により、近畿地方晩期土器編年として示された滋賀里編年において、滋賀里Ⅱ式-滋賀里Ⅲ式間の隔たりを指摘[1]。従来の滋賀里Ⅲ式を滋賀里Ⅲb式とし、新たに滋賀里Ⅲa式を設定。後に滋賀里Ⅲb式を兵庫県篠原中町遺跡出土資料を基に細分し、滋賀里Ⅲb式を篠原式(古・中・新段階)とすることを提唱した。[2]。また、大阪府長原遺跡の発掘調査報告書内で、縄文晩期最終末の型式として長原式を設定した[3]


縄文土器弥生土器の系統

縄文土器と弥生土器の製作技法において、粘土の調整方法や積み上げ方法が異なり、弥生前期の土器と朝鮮無文土器が同様であることを指摘[4]。これにより、縄文土器と弥生土器は同じ系統のものではなく、半島から渡来したものであったことが判明した。

脚注

  1. ^ 1981年「晩期の土器―近畿地方の土器」『縄文土器II』(縄文文化の研究第四巻)雄山閣
  2. ^ 1994年「篠原式の提唱-神戸市篠原中町遺跡出土土器の検討-」『縄文晩期前葉-中葉の広域編年』(平成4年度科学研究費補助(総合A)研究成果報告書)
  3. ^ 1982年「縄文土器」『大阪市平野区長原遺跡発掘調査報告II』財団法人大阪市文化財協会
  4. ^ 1984年「縄文土器から弥生土器へ」『縄文から弥生へ』帝塚山考古学研究所
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