高沢忠順
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高沢 忠順(たかざわ ただより、寛政11年1月7日(1799年2月11日) - 享保17年(1732年))は、加賀藩士、農政家。
人物
父・勘太夫から450石を相続。御馬廻組に列した加賀藩士(平士)。諱は初め菊忠(きくただ)。通称は平次右衛門、号は鶴鳴。
生涯
加賀藩の財政困窮の時期に能州郡奉行、改作奉行を務める。
天明5年(1785年)、加賀藩主前田重教の財政策を批判し、翌年まで閉門に処された。
寛政4年(1792年)、再び加州郡奉行に登用されると、寛政6年には物頭並に昇進。御作事方御用を務め、改作所に所蔵されていた農村法令を整理して『改作所旧記』(別名『高沢録』)を完成させる。
3代藩主・前田利常の改作仕法と、名君として名高い5代藩主前田綱紀による改作法体制確立の経緯を跡づけ、藩政の根本となる改作仕法の再興を説いた。