天国
天国(てんごく、heaven)とは、
- 神や天使などがいて、清浄とされる、天上の理想の世界[1][2]。
- 信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所(キリスト教での用法)[1]。
- (転じて)そこで暮らす者にとって、理想的な世界のこと[2]。何にわずらわされることもない、快適な環境[2]。もしくは、かくあるべきだとする究極の神の創造理想と定義できる世界。
セム族・ユダヤ教における天国
広汎なセム族の世界観では、人間は死後陰府(シェオール)に行くことが決まっており、天国はただ神々の住まう領域に過ぎなかった。ヤハウェ唯一神論を採る古代イスラエル国家も同様の世界観を共有していたが、紀元前6世紀のバビロン捕囚によってユダヤ教にゾロアスター教の教義である死者の復活の概念が取り込まれた。当初、それはイスラエルの再建という地上への復活と考えられたが、天に召しあげられたエノク、エリヤの逸話を拡大解釈し、天国での来世を創造するに至った[3]。ヘレニズム時代のユダヤ教の天国は、未来永劫仲間の霊魂や天使、神とともに過ごすというぼんやりしたイメージの世界だった。
紀元前1世紀にフィロの著した旧約聖書外典『ソロモンの知恵』の天国観は、聖書とプラトン哲学の霊魂思想を展開させたもので、のちのキリスト教思想家たちに大きな影響を与えた[3]。
キリスト教における天国
キリスト教の教理では、最後の審判以前の死者がどこでどのような状態にあるのかについて、各教派間の統一見解を得るに至っていない。
だが、聖書でイエスの言った「天国」は、 ①経済的側面、 ②社会的側面、 ③政治的側面、 ④宗教的側面、 でみると、次のようになる。
【経済的側面】
第一の経済的側面は、イエスの「ヨベルの年」に関する言及と、「ぶどう園」のたとえで、きわめてよく表わされている。
ルカによる福音書によると、イエスは、広野での誘惑の直後、故郷・ナザレの会堂に立って、「預言者イザヤの書」の一部を、朗読した。
(ルカ4:16-19= 「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。 『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』」)。
このイエスが朗読した部分の主題は、「主の恵みの年」で、レビ記の規定による「ヨベルの年」である。(レビ記25:8以下)
律法的に規定されたこの「ヨベルの年」が、イザヤ書には、預言的に解釈されて記録されているので、イエスはこれを朗読したのである。(イザヤ61:1以下)
「ヨベルの年」とは、レビ記の律法的規定によれば、「安息の年」を七つ数え、五十年目に一度来る「全釈放の年」であって、この年には二つの釈放が行なわれる。
第一は、「人格的釈放」で、自己の身体を奴隷として売っていた者が、この年の七月十日のラッパの音とともに釈放され、「おのおのその家にかえる」ことが許されるので、これを「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」(レビ記25:10)こととされている。
第二は、「不動産の回復」で、どんな事情であれ、不動産を、ことに先祖伝来の、「約束の地」を分け与えられた土地を他人に売却または担保にしていた者に、それが無償で返還される(レビ記25:13など)。
前者に対しては、その理由として、すべてのイスラエル人はその神に属する者であるということが述べられ、「彼ら(イスラエル)は、わたし(神)がエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。」(レビ記25:42)としるされている。
後者に対しては、その理由として、土地はいっさい神に属するものであることが述べられ、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたは(イスラエル)わたしのもとに居留している異国人である。」(レビ記25:23)としるされている。
この「ヨベルの年」の規定が与えられているのは、その聖書正典の救拯史的の背景によると、イスラエルがその「奴隷の家」であるエジプトを出て、「約束の地」カナンで「選民の国」という理想的な国家を営むまで、前者から後者へと移る準備のために与えられた「広野の四十年」の間においてであった。 したがってこの規定は単なる律法ではなく、奴隷から市民となる目的のための規定であり、選民のひとりとして、すべてのイスラエル人の権利であるとともに、他者に対して行う義務として規定されたものである。
この規定は、額面どおり、宗教的意義ではなく、経済的意義で理解されなければならない。
イエスがこの意義をもつ「ヨベルの年」への言及を、レビ記ではなく、イザヤ書から朗読したのは、これを預言的志向で理解したからである。 「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21) と、このときイエスが言った通りである。
「ヨベルの年」への言及で、表現された神の国に関するイエスの宣教の「経済的側面」は、イエスの「ぶどう園」のたとえで明らかである。
このたとえは、ぶどう園の主人が、そこで働いた労働者の勤労時間の長短によらず、一定の賃金ーーローマ銀貨一デナリを、八人家族を一日だけ養える金額ーーを、あたえたという点にその意義をもつたとえである。(マタイ20:1以下) 「力量に応じて働き、必要に応じて受け取る」という、生活資料は勤労の量によるものではない、という原則を教えたものである。
この「経済的原則」は、イエスの創案ではなく、旧約聖書の「律法」から出たものである。
出エジプト記の「マナ集収」の物語がその根拠で(出エジプト16章)、そこにはイスラエルが広野で食糧に困ったとき、マナが与えられたこと、これを集めるのに個人個人の身体の大小強弱によって差異のあったこと。 しかしそれにもかかわらず指導者モーセが桝(マス)で計量して与えたところ、その受けるところに過不足がなかった、ということが記録されている。
「主が命じられたことはこうです。 『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。 各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」そこで、イスラエル人はそのとおりにした。 ある者は多く、ある者は少なく集めた。 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。 各自は自分の食べる分だけ集めたのである。」(出エジプト16:17ー18)とは、この物語の中心の言葉である。
イエスは、このたとえでこの原則を引用したが、これは「ヨベルの年」の場合と同様、選民王国の市民の経済的条件であることを示すために引用したもので、マタイによる福音書はこのたとえの冒頭に、 「天国は労働人をぶどう園に雇うために、朝早く出でたる主人のようです」 としるして、このたとえそのものが、「神の国」(天国)の原則を示すものであることを明示している。
これは明らかにイエスが、その宣教した「神の国」(天国)の「経済的原則」を教えたものである。 同時にこれによって前述の「ヨベルの年」の記述も、けして心霊的教訓の象徴的表現ではなかったということが証拠だてられる。
【社会的側面】
イエスの「神の国」(天国)の宣教の第二点は、「社会的側面」、対社会態度の原則である。
この点は、イエスの「無抵抗主義」と普通呼ばれている教えに現わされている。 マタイ5:39ー42、 「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」
イエスはこの「無抵抗主義」と呼ばれている原則を、旧約聖書の律法の「復仇法」(出エジプト記21:23ー25)との連関で語っている。
「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」 という「復仇法」は、きわめて社会的に正しい関係を規定してはいるが、そこに具体的な一つの超えがたい困難がある。
それは、「加害者の害の程度の測定」は、「被害者の害の程度の測定」とは必然的に異なってくる、ということである。 人間は、「被害者意識に鋭敏」で、「加害者意識に鈍感」だからだ。
したがってそこから不断に紛糾が起こり、両者を満足させる解決が得られない。 この「復仇法」のままでは、この困難は永久に解決できない。
これを超克するためには、前記の、 「しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。 あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」 という普通「無抵抗主義」と呼ばれる原則がなければならない。
これに対して過去、諸種の解釈があったが、これを真に理解するためには、「神の国」(天国)という理想的社会との連関においてでなければならない。
人間が希求する理想的社会をその究極的姿においてみるとき、これ以外に正しい社会的関係はあり得ない。
この原則はイエスの他の教えによっても説明されている。 兄弟が自己に対して罪を犯した場合「七度を七十倍するまで許せ」(マタイ18:22)といい、この原則がどこまでも「神の国」(天国)の社会的原則であるべきことが教えられている。
【政治的側面】
イエスの「神の国」(天国)の宣教の第三は「政治的側面」でみる。 他の側面のように、顕著に表われていない。
このことは共観福音書だけでなく、ヨハネによる福音書でもいわれているように、 「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:15)
イエスが自身の宣教を、「国家の政治的回復」の意味に解釈されることを極度に避けたためであったように思われる。
福音書では、この側面のイエスの言葉が、「心霊化」されるか、または「贖罪的意義」に理解されている。
でも、福音書に表わされている「弱い者」と「小さい者」とに対する価値の重視は、「神の国」(天国)の「政治的側面」をよく表わしている。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。 止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14)といい、 「まことに、あなたがたに告げます。 あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」(マタイ18:3ー4) といい、 さらに、 「天地の主であられる父よ。 あなたをほめたたえます。 これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」(マタイ11:25)、
という言葉などは、明らかにイザヤ書の預言における、「神の国」(天国)の中心である「ひとりのみどりご」を思わせる(イザヤ9:6以下)。
ことにイザヤ書の「神の国」(天国)の状態を預言的に描写している光景、「小さい童児に導かれ」という句を想起するとき、この連関が考えられる。
そこには、狼、小羊、豹、小山羊、子牛、雌牛、熊、獅子.毒蛇、まむしなどがいるが、それらはすべてこの「小さい童子に導かれ」、そこにはいっさい弱肉強食、優勝劣敗、自然淘汰の現象はなく、すべてのものが、「藁(わら)をくい」、「わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(イザヤ11:1ー9) という状態が、全地を支配するものといわれている。
イエスのこの言葉を単なる弱小者に対する人道的同情から出たものと解するときに、それはイエスのこの偉大な教説を、一つの陳腐な感傷的説教としてしまうことになる。
【宗教的側面】
イエスの「神の国」(天国)の宣教の第四の側面は、精神的または宗教的、倫理的のそれである。
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)によると、彼の宗教的、倫理的の教えは、その宣教の時の半ばを過ぎるとともに(マルコ8:27以下、マタイ16:21以下)、「自己犠牲」を教える言葉が非常に多くなり、それもイエス自身のそれによって宣べている。
強い印象を受けるのは、前述の「ぶどう園のたとえ」の直後に、 「あなたがたの間では、そうではありません。 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:26ー28) としるされている事実である。
この言葉が語られた契機として、ゼベダイの子たちの母がイエスに、彼が「神の国」(天国)の主となったとき、その二人の子たちをその左右に座らせる特権を与えられるように願いでたことが語られている。
これによって明らかに「神の国」(天国)の政治的、社会的、経済的原則と、宗教的、倫理的原則とが、絶対に不可分離のものであるとともに、外の世界のそれとまったく異なるものであることが示されている。
イエスの語る政治的、社会的、経済的原則が行なわれ得るのは、この宗教的倫理的原則によってのみであることが、そこに明示されている。
この「自己犠牲」ーーひいては「自己放棄の原則」が、前述の「ヨベルの年」の記録を含むイザヤ書後半の「苦難の僕」のそれから採られたものであることを知れば、そこにこの二つの原則が有機的連関をもっていることが明らかである。
ことにイエスがくり返して述べた、 「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。 『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マルコ8:34、マタイ10:38、16:24、ルカ9:23) という言葉はーールカによる福音書は特にこれに「日々」と付け加えているがーーこの「自己放棄」を、「神の国」(天国)市民の条件として、要請した言葉である。
これによってイエスの「神の国」(天国)の性格が、前述の宗教的、倫理的基礎をもつことが示されている。
換言すれば、これなくしては、「力量に応じて働き、必要に応じて受け取る」という「神の国」(天国)の生活は、喜び迎えられることはできないのである。 共観福音書にしるされている、イエスのすべての宗教的、倫理的教えは、すべてこの点に集中している。
以上のことを繰り返して書くと、「神の国」(天国)の条件ーーその「経済的側面」、「社会的側面」、「政治的側面」ーーは、「より弱い者の弱さを負う」ことが不可欠なのだが、生来の人間にはこれが不可能なのである。
自らを「無きに等しい者」として自覚することで初めて可能になりる。 自らを「無きに等しい者」として自覚するということは、自らのエゴイズムを「償い難い負債」として認めさせられる「認罪」においてしかおこらない。 「認罪」、そしてその罪を「キリストの十字架に負われた」という賜物に先行されて「他者を負う」ことが可能になる。 イエスに「負われた」という賜物の自覚は、「負債者という無きに等しい者を有る者のごとく見給う神の恵みの選びの自覚」に他ならない。 この自覚は、この選び主とのつねに新たな「今此処」での出会いの基礎条件となる。
信仰者といえども、つねにこの選び主である神を、絶対他者との恵みの出会いにおいて知らされる「汝」としてはでなく、対象化し、相対化し、一面化し、過去化して、「それ」か、せいぜい「彼」として対する危険にさらされている。
ダンテの『神曲』では、地球を中心として同心円上に各遊星の取り巻くプトレマイオスの天動説宇宙を天国界とし、恒星天、原動天のさらに上にある至高天を構想していた。
神の王国を差して天国とする事もある。
イスラムにおける天国
イスラム教における天国 (جنّة jannah) は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされる。キリスト教と異なり、イスラム教の聖典『クルアーン』ではイスラームにおける天国の様子が具体的に綴られている。
他の宗教での類似の概念
インド発祥の宗教
ヒンドゥー教
仏教
仏教の世界観は、ヒンドゥー教と起源を同じくしており、デーヴァローカに対応するのは天部(神々)や天人が住む天(天道・天界)である。これは六道最上位、つまり人の住む第2位の人道の1つ上に位置する。しかし仏教では、神々すら輪廻転生に囚われた衆生の一部にすぎない[要出典]。
それら全体に対し、輪廻転生を超越した高位の存在として仏陀が、仏陀の世界として浄土が存在する。日本の仏教では、そもそも「天国」とは言わず、この対立構造において「キリスト教的な天国」に相当するのは『浄土』(浄土宗では阿弥陀仏の浄土である『極楽』)である。
他
比喩的用法
上記のような用法から転じて、そこで暮らす者にとって理想的な世界[2]、何にわずらわされることもない快適な環境[2]も指すようになった。 類義語としては楽園が挙げられる[2]。「タックス・ヘイヴン」「スパイ天国[4]」「野鳥の天国[2]」などのように用いる。
出典・脚注
- ^ a b 広辞苑第五版
- ^ a b c d e f g デジタル大辞泉
- ^ a b マクダネル、ラング 1993, pp. 35–43.
- ^ 「いわゆる「スパイ天国」論に関する質問」 - 参議院、2018年5月12日閲覧。
参考文献
- コリーン・マクダネル、バーンハード・ラング 著、大熊昭信 訳『天国の歴史』大修館書店、1993年。ISBN 446924340X。
関連項目
外部リンク
- Heaven and Hell - スタンフォード哲学百科事典「天国と地獄」の項目。