非人
非人(ひにん)は、主に、(1)日本中世の被差別民の呼称、(2)江戸時代には、穢多(えた、長吏)とともに賤民身分の中核をなす。いわゆる士農工商の平人には属さない。
非人という言葉は、仏教に由来し、奈良時代に既に見られる。時代によって言葉が指す内容(社会関係上の立場や就業形態など)は大きく異なる。
変遷
非人の形成期には検非違使管轄下での囚人の世話、死刑囚の処刑、死者の埋葬、街路の清掃、街の警備など、また悲田院や非人宿に収容されたことから、病者の世話(ハンセン病者ごと非人と呼ばれた)といった仕事も引き受けていた地域・集団もあった。また芸能を職能とするものもいた。鎌倉時代には叡尊や忍性による悲田院の再興をうけて西大寺律宗の元に組織化されたり、一遍の時宗とともに遊行するものもいた。中世の非人の多くは異形の者であった。やがて河原者、無宿者などを差すようになった。
江戸時代
概要
非人とは
非人は、(1)代々の「非人素性」の者、(2)非人手下(-てか)という刑罰で非人になる者、(3)野非人(無宿非人)の違いがある。このうち(1)(2)を抱非人(かかえ-)と呼び、(3)と区別する。
(1)一般の非人は、非人頭(悲田院年寄など)が支配する非人小屋に属し、小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成された。この頭や小屋主の名称は地域よって異なる。非人は小屋に属して人別把握され、正式な非人となる。
(2)犯罪による非人への身分移動を伴う刑罰を非人手下という。刑の執行は、非人頭に身柄が引き渡されることで完了する。人別把握され、非人となる。
(3)野非人・無宿非人は、非人の組織に属さないまま、浮浪状態にある者である。平人・抱非人・穢多が、経済的困窮などによって欠落(かけおち)し、無宿となり、浮浪状態となる。取締の対象であり、捕まった野非人は元の居所に返されるか、抱非人に編入された。
近世の非人の発生は、江戸時代の町と村の成立過程と不即不離の関係にある。村においては地方知行制から俸禄制へと移行するなかで、村に対する武士の直接的関与が薄れ、年貢の村請けが進行するにともない、病気や災害などにより年貢を皆済できない百姓が村の根帳(人別帳)からはずれ町へ流入。町においては城下町整備にともなう治安・防火対策の一環として、里がえし政策をとり続けるが、一方ではこれを保護の対象として捕捉し、抱非人として野非人を取り締まった。場合によっては元の身分に復帰することもできたという(足洗い)。
生業と役負担
非人の生活を支えた生業は勧進である。小屋ごとに勧進場というテリトリーがあり、小屋ごとに勧進権を独占した。非人の課役は、行刑下役・警察役などである。 本来町や村は、共同体を維持するため、よそ者や乞食を排除する目的で番人を雇っていたが、非人はこの役を務めた(番非人、非人番)。
町方と在方
- 町方と在方の非人の異同
弾左衛門支配下
江戸においては、近世中期に穢多頭弾左衛門の支配下に入った。弾左衛門の下には非人頭がおり、これらの非人を管理下においた。身分的には穢多より非人は下位に置かれていたとされているが、これは江戸の事例であり、京都や大坂などでは穢多身分との支配関係はなかった。
弾左衛門の支配は、関八州(水戸藩・日光山領)、伊豆国、陸奥国の南部、甲斐国・駿河国の一部に及んだ。当該地域の非人は弾左衛門の配下となった。
畿内近国
その他
有名な例として、太平の世で注文が激減、ついには非人小屋入りしたことから「非人清光」と呼ばれた刀鍛冶、加州清光などもいた。