前適応
前適応(ぜんてきおう preadaptation)とは、生物の進化において、ある環境に適応して器官や行動といった形質を発達させるにあたり、それまで他の働きに用いられていた形質が転用されたとき、この転用された元の形質を呼ぶ。他に、薬剤耐性に関して、やや異なった用法もある。
一般的用法
この言葉は、ある適応がなされる場合に、その一部が以前から準備されていたとする言い方である。もちろん、その適応が必要になる前に、それに対応する器官が存在する、あるいは発達する理由はあり得ないから、当然ながら、それ以前には異なった目的に利用されていた、という訳である。
これは、複数の器官に同時的な変化が必要だと思われる場合などには、説明として便利である。進化論批判の立場の議論によく見られる論旨に、次のようなものがある。
- 特定の仕組みを支えるのに、複数の部分が働いている場合がままあり、そのような場合、それぞれの部分が単独で変化しても適応的な意味はなく、かといってそれらが同時に変化したのだとすれば、そのためにはそれらをまとめて計画的に変化させる何かの存在(神とか)を考えなければならない。
この批判は、ある意味では正しいのであって、これに対する反論としては、それらが同時に変化したとは限らないのだ、と説明する道と、それらが個々にも適応的意味を持っていたとする道がある。この論が前適応である。
具体例
たとえば、鳥は爬虫類(恐竜)から進化したものだと考えられている。しかし、鳥は空を飛ぶことを可能にするるために、体の多くの部分が爬虫類とは異なっている。たとえば、前足の指は退化し、背骨は互いに融合し、尾は短い。胸骨は胸筋をつけるために竜骨を発達させ、首は長くなっている。また、全身は羽毛で覆われ、前足は羽が並んだ翼となっている。そのうえで、空を飛ぶための行動(跳躍や羽ばたきなど)を行わなければならない。このすべてが飛ぶために必ずしも必要とは思われないが、羽毛や羽ばたき、背骨の構造などは整っていなければ空を飛べないと思われる。総合学説によれば、新しい形質は突然変異によってのみもたらされるものである。突然変異には方向性がないことになっているので、鳥が空を飛べるには、あまりにもたくさんの偶然が積み重ならなければならない。したがって、爬虫類から鳥に進化する過程で、これらの条件が同時にそろったのだとすれば、それは奇跡に近いと言える。
この困難を避けるために考えられたのが前適応という考えである。例えば、羽毛は実は地上性の恐竜が既に持っていたと見る訳である。この場合、羽毛は例えば体温保持の役割を担っていたと考えられる。そして、そのような羽毛恐竜の一部が樹上生活から滑空へと進めば、羽毛を整えて翼を形成することもさほど無理なく理解できる。より能動的に飛ぶための適応は、さらにその後に発達したと見ることもできる。
また、このことはなぜその系統のものが鳥になったか、という答えにもなり得る。それは、その系統の動物が鳥になり得るいくつかの特徴を持っていたからだ、と言えるからである。言い換えれば、「翼と羽毛が偶然そろって進化した」のではなく、「羽根を持っていたからこそ翼を進化させ得た」というふうに考えるのである。
この例では、現在は小型恐竜で羽毛を持っていたものがいることが分かってきているので、現実味を帯びている。
他に、哺乳類の胎生の仕組みを支えるのは、胎盤であるが、これは爬虫類の卵における尿のうに由来する。これも前適応の例と言えるだろう。あるいは陸上脊椎動物の耳もよく話題に上る例であるが、魚類においては頭蓋骨内に内耳があり、平衡胞の役割だけを持っていた。平衡胞は体の振動を受け取ることも可能であるから、これが陸上に出る際に音波の受容器に流用されたと考えられる。
薬剤耐性に関して
細菌類や害虫において防除のための薬剤を散布すると、その薬剤に耐性を持つ系統が出現することが往々にしてある。それらを詳しく調べると、薬剤が散布されるより前からその個体群内に薬剤耐性を持ったものが存在し、それが生き延びて数を増やした結果であることが判明する場合がある。この場合の、最初に薬剤をまく前から存在する薬剤耐性を前適応という。