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条理と反観合一

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条理と反観合一(はんかんごういつ)


三浦梅園は自然の自己構成原理を「条理」と呼ぶ。これは細胞分裂に似ており、自然が自らに対して行う唯一の操作である。条理は二分木(binary tree)の連鎖であり、自然界が均衡性を保つための枠組みである。したがって条理の全体はヤジロベエの連鎖のようになる。これを数的に定式化して「一即一一」(いちそくいちいち)、「一一即一」という。また「一即二」「二即一」ともいう。

梅園は、初期の稿本では、上から下に伸びる樹状図を描いていたが、中期からは円形図に変わった。条理の構造を端的に示すのが 剖対反比図一合(ぼうついはんひずいちごう)である。

原本では中央に本の綴じがある。閉じて重なるタイプの一合図である。

この構造の上にシステムとしての個々の存在物が配置されることを示すのが 経緯剖対図(けいいぼうついず)である。

図は第4円までしか描かれていないが、際限なく広がるものである。このことは梅園自身の解説書である「玄語手引き草」に明記されている。つまり、梅園は、基本的には自然界が完全二分木構造(perfect binary tree structure)を持っていると考えたのである。そして、自然界のこの自己構成原理たる条理を正しく認識する方法として「反観合一」を考えた。条理は先験的であり、「反観合一」によって後追い的に認識されるのである。

「反観合一」は「反して観、一に合す」とも、「反して一に合すを観る」とも読めるが玄語の語法で説明したとおり、ここには梅園独自の語法がある。「反観合一」は「反観」と「合一」という相反するふたつの認識法から成立している。「観」の文字は、これが認識法であることを示している。認識法であるという点から言えば、「合一」は「合一観」のことであり、「反観合一」は「反観合一観」のことである。この点はすでに研究者によって指摘されている。

「反観」とは、正反対の対立物を想定して、一方と他方に相反する性格を見いだす認識法である。この相反性は、相互に、かつ同時に、かつ等価に成立しなければならない。つまりAと非Aがあって、両者が共通の存在から分かれ出たものである場合、Aと非Aは「一一」の関係にあるとされ、高次の共通の存在が「一」であるとされる。この3つの「一」を上から下に言うとき「一即一一」と言い、下から上に言うとき「一一即一」と言う。自然界においては、この連鎖が果てしなく続くと梅園は考えた。

しかし、錯雑とした自然界を一対のものの組み合わせとして、一貫して理解することは甚だしく困難である。『玄語』が未完成に終わった理由は、ひとえにこの困難さにあると言って良い。自然界は条理によって作り出されたものであるというのが、『玄語』における絶対的な仮定である。これを後追い的に認識していくためには、あたかもジグソーパズルを組み立てるような地道で困難な作業が要求される。

このとき、バラバラにおかれたピースを合わせるのは、ただ、ピタリと合うかどうかという判定基準だけである。梅園は徹底してこの判定基準のみに従って、自然界のあらゆる要素を再構成しようとしたのである。「反観」とは「徹底して相反性を見る」ということである。それに誤りがなければ必ず「合一」することになる。この認識法が正しく遂行されない場合、認識は臆断に陥り、わずかな臆断の積み重ねが収拾のつかない混乱を招くことになる。

梅園は、『玄語』において「反観合一」を実践的な認識法として、あらゆる場面に適用した。それは必然的に人間の世界を含めた自然界全体に適用される結果となった。つまり、『玄語』は、同じ論理的重さを持つ一対の存在物の完全枚挙を目的としたことによって、包括範囲のきわめて広いデータベースとなった。もっとも梅園が記録したのはほとんどその項目のみであった。そのデータベースは、条理の必然性からして、自然界と一対一に対応する。従って、『玄語』と自然界は単写像の関係を持つに至る。それ故、『玄語』は自然界の論理的写像となるのである。

徹頭徹尾「反観合一」という認識法が貫徹する『玄語』の体系は、その基底的性格の故に、諸学の批判を行う学問学という性格を持つこととなった。この学問批判を書き綴ったのが第二主著『贅語』(ぜいご)であり、倫理批判を行ったのが第三主著『敢語』(かんご)である。梅園は、この『敢語』の中で徳川幕藩体制を痛烈に批判し、天皇制を称揚することによって、明治維新の思想的先駆を為したが、同時代の学者からは机を穢すものとして痛烈に批判された。ただ、京都の大学者、高伯起(こう たかおき)は、『敢語』を高く評価し、梅園をして「千年の知己」と言わしめた。

「反」と「合」を持つ4字からなる語の組み合わせとしては、他に「反合成全」があるが、これは認識法ではなく存在のあり方としての条理を概念的に言い表したものである。文と見なせば「反し合して全を成す」と読める。一見似ているように見えるが、「反観合一」は認識の技法であり、「反合成全」はそれによって開示される存在の構造であるから、厳然とした違いがある。

条理は、一般に二字熟語と思われがちであるが、『玄語』の他の語と同様、相反する二語からなる造語である。「条」は「条貫」のことであり、「理」は「理析」のことである。文例を挙げれば、

16173:  一なる者は対して合す〉以て其の條貫を成す〉
16174:  二なる者は分れて反す》以て其の理析を観る》

16185:  條貫は脈の通を観る〉
16186:  理析は用の別を観る》是を以て
               (行番号は三浦梅園資料館刊行の『玄語』による)

などがある。

この「条貫」を示すのが「剖対反比図一合」であるので、これは、情報処理的に言えば完全二分木に該当すると考えられる。ただし、ふたつに分割されるものは「用の別」を持っていなければならない。「用の別」とは「作用が正反対であること」を意味する。たとえば、昼と夜を例にすれば、

378: 昼夜にていえば、昼は地上の物をしめして天上の物をかくす。
379:         夜は天上の物を示して地上の物をかくす。
                           (「多賀墨卿君にこたふる書」より)

であり、天体類と地表の存在物の二分化においては、

380: 是れを天地の物にいえば、天に在る物は燥いてうかみ、夜、明を発す。
381:             地に在る物はうるおってしずみ、昼、影をおさむ。
                                 (同上)
とされる。そして、

382: 天地の物、皆かくのごとく反すれば、天地の物をつくさずんば、其の反をかぞえ終わるべからず。
383: 故に、反せざれば天を知る事能わず。             (同上)

と書かれているので、梅園がその思想において、相反する二物の完全枚挙によって世界と相似を為す言語モデルを構築しようと意図していたこと、またさらに「反観」(相反性を観る)と「合一」(その統合を観る)を世界全体に適用することによって、その完全枚挙が可能であると確信していたことが分かる。

『玄語』の図と、本文に一貫する二行一対の記述は、すべて「天地の物をつくす」ための梅園の労働の痕跡である。梅園が何と何を「反観」したか、したがってまた何と何が条理的対関係にあるのかは『玄語』の図を見れば分かるが、用語が独自の造語である場合が多いため理解困難である場合も多い。

歴史的には、この構造をヘーゲル弁証法に近似するものと見なす説が有力であったが、末木剛博の論文「梅園とヘエゲル」の詳細な考察によって、類似点よりも相違点の方が大きいことが指摘されている。また条理の展開は即時的であって時間経過を要しない。したがって、展開に時間経過を前提とするヘーゲルの思想とは、その点でも異なっている。

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