橘天敬
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橘 天敬(たちばな てんけい、本名:園部 義文、1906年11月3日 - 1984年6月1日)はおもに昭和期の日本画家にして皇室詐欺師である。自称京都府生まれ、福岡市育ち。実際は炭鉱社勤めの園部 儀助の次男[1]として産まれる。父に伴い夕張から福岡へと移った。別名に園部香峰、橘香果などがある。 ほぼ盲目状態であった東久邇稔彦に取入り、耀禅宮義仁と名乗っていたが、後に中山小夜子という女性から小松中宮を名乗ることを許されたと称して、明治天皇第四皇子 小松中宮義仁(記者に明治天皇には第五皇子がいることを指摘され、後に第六皇子に修正)を僭称し、戸籍上の改名を家裁に申請した。係争中に小松院天敬法親王と名乗ったが、結局、戸籍上は中山義文になった。
世界靖国顕彰会、全国叙勲者連盟、IFC国際文化連盟などを各種団体を設立する。これらの団体には、前述の東久邇稔彦のほか、元駐米大使 牛場信彦や、真言宗国分寺大本山管長 西口公教大僧正など各界有名人が顔を揃えた。当時の雑誌インタビューによれば、殆どの者は橘 天敬が明治天皇ご落胤でないことは承知していた。当時国内外で橘 天敬の絵に対する評価が高かったことが人を集めれた一因である[2]。
経歴
もちろん、殆どの経歴は橘 天敬の自称である。語るたびに変わっており、各雑誌媒体の記述をつきあわせると矛盾を起こしているものも多い。
- 明治39年(1906年)京都で生まれる。生後間もなく直心影流薙刀術宗家である園部正利夫婦を通じ、福岡県嘉穂郡大谷村の園部稲吉夫婦に預けられ、園部義文として育つ。別設定で、生後、徳大寺実則、伊藤博文、山県有朋の指図で、北海道旭川町長 園部儀助の次男として入籍後、園部稲吉夫婦に預けられたという設定もある。、
- 大正9年(1920年) 右翼、頭山満の高弟、末永節の末永塾で薫陶を受ける。
- 大正11年(1922年) 上野美術学校入学のため上京する。
- 昭和元年(1926年) 20歳の頃より仏教美術研究に専念。
- 昭和2年(1927年) 宮崎県高千穂町の道路修理のため50点の画を寄与する。
- 昭和4年(1929年) 荒木十畝の推薦により「池辺」をイタリアの讀画会展に招待出品する。これより園部香峰と号する。
- 昭和5年(1930年) 福岡市福岡日日新聞社主催、園部香峰渡伊送別日本画展を開催する。
- 昭和6年(1931年) 九州財閥、麻生家の縁戚である永末 静子[3]と結婚する。
- 昭和8年(1933年) インド、タイ、ヨーロッパに留学する。タイ国立博物館にて個展を開催する。「メナムの黎明」がタイ国立博物館に所蔵される。
- 昭和9年(1934年) シンガポールに於いて個展を開催する。
- 昭和10年(1935年) 文展の招待作家となる。
- 昭和11年(1936年) 香港グロスターホテルにて個展を開催する。
- 昭和13年(1938年)外務省欧州局長市川彦太郎扱にて、イタリアに「降魔之図」を贈る。イタリア国立博物館所蔵。「歓喜」が満州国協和会本部に所蔵される。日東美術院(公募展)を創設。
- 昭和14年(1939年) 満州国美術院を創設。
- 昭和14年(1939年) 横山大観、荒木十畝と共にイタリア政府より文化勲章を贈られる。
- 昭和16年(1941年)「立正安国」が陸軍省に所蔵される。
- 昭和17年(1942年)「高丘親王御図」が昭南神社陸軍省に所蔵される。岡部長景文部大臣、横山大観画伯と共に美術学校改革。
- 昭和20年(1945年) ダグラス・マッカーサー司令官を訪ね天皇制護持を献策。
- 昭和21年(1946年) 藤田嗣治画伯と共に米海軍芸術顧問及び軍政部顧問に就任。
- 昭和23年(1948年) 「早春」が農林省に所蔵される。
- 昭和25年(1950年) 画号を橘天敬と改名する。
- 昭和27年(1952年) 丸ノ内東京会館において新作鑑賞パーティーを開催する。
- 昭和29年(1954年) 「富獄」が大蔵省に所蔵される。
- 昭和32年(1957年) 中島久万吉の推薦により、丸ノ内工業俱楽部に於いて個展を開催する。
- 昭和35年(1960年) メキシコ政府の要請によりメキシコ国立美術館に於いて個展を開催する。「富岳湖畔図」を藤井崇治の斡旋により、国際MRAアジアセンターに贈呈する。
- 昭和37年(1962年)外政学会理事長(および日米協会会長)細野軍治によりロバート・ケネディに「富岳雲海之図」六曲一双屏風を贈呈する(没後は国立フリーア美術館に移館)。
- 昭和38年(1963年) 「無心光明」が池上本門寺に所蔵される。
- 昭和39年(1964年) 「日暖かし帝城の春」が逓信総合博物館に所蔵される。
- 昭和40年(1965年) 明治神宮参集殿にて「橘天敬の芸術」を開催。「悠々無限図」を台湾・蒋介石総統に贈呈。耀禅宮三代目総裁となり、耀禅宮義仁と改名。(耀禅宮初代総裁東久邇稔彦、耀禅宮二代総裁賀陽宮恒憲)世界靖国顕彰会を設立し、理事長となる。
- 昭和42年(1967年) 全国叙勲者連盟を創設。
- 昭和43年(1968年) 3月、三品小松中宮長仁親王の二代として小松中宮義仁を名乗り、改名を家裁申請。
- 昭和45年(1970年)屏風絵「八州之気図」が明治神宮宝物殿に奉納される。東京美術倶楽部にて個展を開く。障壁画「清生楽々天地乃間」がテキサス州歴史博物館に所蔵される。
- 昭和47年(1972年) 米国国立フリーア美術館に六曲一双屏風「風神雷神」が収蔵される。
- 昭和50年(1975年) 三越本店7階大ホールにて個展を開催する。
- 昭和52年(1977年) 駐仏日本大使館後援でパリ市ドロアン画廊にて個展、パリ市より芸術功労賞(金メダル)が贈られる。
- 昭和53年(1978年) 真言宗大本山国分寺にて大本山国分寺第68世座主大僧正、西口公教により入道得度。
- 昭和59年(1984年)6月1日逝去。戒名は小松院殿天敬義仁大居士。葬儀委員長は美術評論家、三宅正太郎。導師は大本山国分寺第68世座主大僧正、西口公教(真言宗)。
- 平成5年(1993年) 英国国立大英博物館にて遺作展。屏風絵「和楽之図」が同館に収蔵される。
- 平成16年(2004年)逓信総合博物館にて特別展「橘天敬屏風絵展」を開催。
- 平成17年(2005年)イタリア上院議会(ローマ)ジュスティニアーニ宮殿にて「橘天敬芸術展」を開催。
- 平成18年(2006年)東京美術倶楽部にて「橘天敬 生誕100年記念屛風絵展」を開催。
- 平成19年(2007年)パリ・アテネ劇場にて「橘天敬 屏風絵展」を開催。
- 平成21年(2009年)7月18日公開の映画「アマルフィ 女神の報酬」(東宝配給)に12作品を画像提供。
参考文献
- 「『明治天皇の御落胤』が初めて明かす」玉川信明編『エロスを介して眺めた天皇は夢まぼろしの華である―御落胤と偽天皇』(社会評論社、1990年、42~55頁)
関連項目
- 竹綱貞男 - 同じく明治天皇の落胤と称して貞王宮と僭称した。
- 堀川辰吉郎 - 生前、高貴な生れと自称していた。死後、堀川の娘を自称する赤の他人中丸薫によって明治天皇の落胤だたっという設定の妄想文が1974年の文藝春秋 九月号に記載された。
脚注
- ^ 週刊新潮1981年10月01日号で、兄の園部建築事務所所長 園部泰文が「はあ、明治天皇の・・・・・・初めて聞きましたよ。私の父(儀助)は炭鉱会社の社員で、北海道や九州といろいろ行きました。私は、彼は明治天皇の子供じゃないと思いますよ。だって、私たちはズッと平民ですからね」と語っている。
- ^ 週刊新潮1981年10月01日号で牛場信彦は「絵はアメリカでも評価は高いし、日本でも高いですよ。しかも、売れますからねえ。私は買ったことありませんけど・・・」と当時の人気振りを語っている。
- ^ 麻生太賀吉の従兄妹にあたる。
外部リンク
- 橘天敬の藝術 橘天敬実娘である「安村文」による公式サイト。