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堀川辰吉郎

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堀川 辰吉郎(ほりかわ たつきちろう[1]1884年? - 1966年12月19日)は大アジア主義者と称する皇室詐欺師。右翼の頭山満から、皇室に関係あると言われたとマスコミに吹聴してただけで当人は明治天皇の“落胤”とは称していない。後に血縁関係の無い、堀川の孫と“自称”する中丸薫によって、堀川 辰吉郎明治天皇女官千草任子(読みは、ちくさ ことこ。実際は千種 任子であり本を出版するにあたり修正)の間に出来た隠し子という設定が雑誌に発表された。井上馨京都芸者の間にできた息子ともいわれ、戸籍上は井上馨の兄・重倉の五男。

人物

京都堀川(旧皇居の所在地)の生まれと自称。戸籍上は1891年生まれとされるが、当人は1884年生まれと自称しており、1879年大正天皇と1分違いで生まれたとの言い伝えもある。

生後まもなく福岡の堀川家に預けられ、頭山満井上馨の庇護を受けて育つ。校長への暴行や動物虐待、さらにはヤクザを相手取っての放火事件など腕白が過ぎて福岡じゅうの小学校をたらい回しにされ、やがて学習院中等科に入れられたが、ここでも女学生の前での公然猥褻事件皇族への暴行傷害事件など問題行動を繰り返して放校処分を受けた。

折あたかも、頭山を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際であった。堀川は日本の学校にいられなくなったため、頭山の依頼で孫文に托されて中国に渡ることとなった。1899年のことである。以後、1912年まで孫文と生死を共にして辛亥革命の成功に尽力した。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用したことが、堀川をして明治天皇の落胤とする風説の根拠の一つとなっている。

その後、奉天世界紅卍字会の会長に推され、日本の軍閥と争いつつ日中平和に貢献。帰国後、1935年大木遠吉や鈴木三郎(関東都督府外事総長・久邇宮御用掛。鈴木貫太郎三男)のあとを受けて大日本国粋会第3代総裁に就任。反軍閥運動のため東條内閣と対立し、ふたたび中国に渡った。

終戦と共に帰国。国粋会総裁という経歴が災いして戦犯容疑でGHQ逮捕されたが、無罪放免となった。

戦後は世界連邦運動を推進。1951年サンフランシスコ講和条約会議に際しては舞台裏の根回しに奔走。

世界各国に48人の妻と88人の子を持つと自称していた[要出典]。正妻は九州の炭鉱王貝島太助の娘。女婿には新日本製鉄会長永野重雄の長男らがいる。カーレーサー浮谷東次郎は堀川の外孫の一人である。国際政治研究家・ジャーナリストの中丸薫は自らを堀川の娘で“明治天皇の孫”だと称している。

参考文献

  1. ^ 名前の読み方はエレノア・ルーズヴェルトのコラム"My Day"(1951年1月4日)にTatsukichiroと明記されている([1])。

関連項目

  • 竹綱貞男 - 大阪の実業家。堀川と同様、明治天皇の落胤との説がある。
  • 橘天敬 - 画家。堀川と同様、明治天皇の落胤との説がある。
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