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福頼氏

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福頼氏
本姓 出自不詳
種別 武家
出身地 伯耆国汗入郡宇多河庄
主な根拠地 伯耆国西部
著名な人物 福頼元秀
凡例 / Category:日本の氏族

福頼氏(ふくよりし)は伯耆国国人で、室町時代から安土桃山時代、西伯耆を中心に勢力を誇った。現在も鳥取県中西部に地名や姓が残る。

経歴

伯耆国汗入郡宇多河庄(現在の米子市淀江町福頼付近)を本拠とすると推定される一族で、室町時代には、守護山名氏被官として、東伯耆の小鴨氏らと並ぶ勢力を有していた。 戦国時代に入ると多くの伯耆衆と同様、伯耆に侵攻してきた尼子氏に本拠を追われるが、毛利氏の後ろ盾を得て奪回する。その後も毛利氏の傘下となり、安土桃山時代まで名前が見える。

室町時代

1422年応永29年)、守護山名氏之の被官として福頼上野守沙弥の名が見えるのが所見である(『前下野守・福頼上野守連署下記状写』)。『大館経興書札抄』では、伯耆衆の中でも福願(頼)氏や小鴨氏ら6氏を、その他多数の国人より高い称号とするよう記している。

戦国時代

16世紀前葉の尼子氏の伯耆侵攻(大永の五月崩れ)に際しては、南条氏小鴨氏ら他の国人と同じく本拠地を追われる。永禄年間にはじまる毛利氏の伯耆侵攻にあたっては、行松氏日野氏らと同様、毛利氏と結び奪回したと見られ、16世紀半ば過ぎには、福頼元秀が尼子軍の攻撃から米子城を守ったとされる。

安土桃山時代

1580年天正8年)には、元秀吉川元春から東伯耆1400石を与えられ(『萩藩閥閲録』)、吉川軍に属す。1585年(同13年)には四国攻めに従軍したが、その間、南条元続と結んだ行松次郎四郎(正盛の次男)に河原山城を攻め落とされる。吉川元春は弟元康に命じ、元秀とともに河原山城を奪回したという(河原山城の戦い)。戦後、毛利輝元は福頼氏の功績を称える書状を送っている。

関連項目

参考文献

  • 米子市 『新修米子市史 第二巻 通史編 原始・古代・中世』
  • 淀江町 『淀江町誌』
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