コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

北沢川文化遺産保存の会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hayabusa77 (会話 | 投稿記録) による 2014年6月30日 (月) 06:28個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

北沢川文化遺産保存の会(きたざわがわぶんかいさんほぞんのかい)とは、世田谷区代田代沢北沢一帯 に眠る文化遺産を掘り起こし、それらを文学碑、地図、文章などに記録し、情報発信を行っているボランティア団体である。

代沢小はかつて坂口安吾が代用教員として務めていた学校だ。このときの経験を書いたのが『風と光と二十の私』にだ。碑はこの一節を刻んでいる。
世田谷区地域風景資産となっている鉄塔の由来を記したものだ。北沢川緑道、鉄塔がよく眺められるところに建っている。塔は、当地に居住した萩原朔太郎、萩原葉子の痕跡を残すものとして風景資産として認定された。

 

この橫光利一文学顕彰碑下部に二枚の鉄平石が用いられている。利一作品『微笑』に出てくる石畳みである。ここを渡ってくる靴音で客の用向きがわかったという。
当会の最初の発信となった冊子である。北沢川緑道に文学碑を建てここを「北沢川文学の小路」にしようという提案と発信をした。この冊子表装は故東盛太郎氏のデザインによるものである。
ファイル:下北沢文士町文化地図.JPG
東京世田谷区代沢、北沢川の緑道に掲示されている「下北沢文士町文化地図」。場所は鎌倉橋の東数十メートルのところ。

北沢川文化遺産保存の会の憲章[1]

*われらは自由である。
他者存在への慮りがあっての自由である。想像を巡らしたり、ものを書いたり、歩き回ったり、ネットに記したり、そのことにおいて自由である。

*われらは文化を探り求めるものだ。
人々が生きてきた土地の臭いやその痕跡を探したり、調べたりして、その歴史を記すものだ。この記録や覚えがあって、人が自由でありうると信ずるからだ。

*われらは自由である。
われらが主体的にことを為すことによってそれは獲得できるものである。何人もその自由を妨げることはできない。

活動経過

2004年(平成16年)12月17日、世田谷代田信濃屋会議室で「北沢川文化遺産保存の会」の発起人会を行い、地域住民に承認された。会長に長井邦雄を選出した。

2006年(平成18年)5月世田谷区の助成を受け、冊子「『北沢川文学の小路』物語」を発行した。新聞二紙、朝日新聞、毎日新聞が記事に取り上げた。[2]

2007年(平成19年)3月20日世田谷区の助成[3]を受け、冊子「下北沢X惜別物語」[4]を発行した。小田急線地下化によって下北沢地域の踏切や駅がなくなってしまう。地域近代史、ここで起こった一つ一つのエピソードを住民から聴き取り、これを記録した。

2007年(平成19年)12月3日世田谷区立代沢小学校校地一角に『坂口安吾文学碑』を建立した。これを報道各社が取り上げる。産経新聞[5]新潟日報[6]読売新聞[7]

 会では建立時に「安吾文学碑建立記念記録集」~あんこ先生が帰ってきた~を発行した。この文学碑には大田区にあった坂口安吾旧居の門柱が使われている。建立に当たっては東邦ホールディングスの協賛を得た。なお、門柱は新潟日報社所有のものであったが、会の要望に応えて無償で譲ってもらった。

2012年(平成24年)10月6日北沢川緑道に「代田の丘の61号鉄塔由来碑」を建立した。これには朔太郎詩定本青猫の次の一節が刻まれている


都会の空に映る電線の青白いスパークを。
大きな青猫のイメ-ヂに見てゐる。
                      萩原 朔太郎
  

 「代田の丘の61号鉄塔」は、当地に住まった萩原朔太郎萩原葉子の居住痕跡を記したものとして「世田谷区地域風景資産」に選定されたものだ。建立に当たっては信濃屋の協賛を得た。

2013年(平成25年)11月23日、横光利一旧居「雨過山房」近くの北沢川緑道に「橫光利一文学顕彰碑」を建立した。このモニュメントには小説『微笑』に出てくる石畳(鉄平石)二枚が用いられている。これに響く靴音で訪客の用向きが分かったと作品には記されている。石は橫光家から寄贈されたものである。建立に当たっては世田谷区の助成[8]、及び東邦ホールディングスの協賛を得た。

活動実績

紀要の発行 

  • 「北沢川文化遺産保存の会」紀要 創刊号 2012年10月6日

 『代田の丘の鉄塔文学論』(きむらけん著)[9]  内容:「代田の丘の61号鉄塔」由来碑建立を記念して発行された。当地に居住した萩原朔太郎のことを中心に記述されている。

  • 「北沢川文化遺産保存の会」紀要 第2号 2013年11月22日

 『北沢の丘の石畳文学論』(きむらけん著)[10]  内容:「橫光利一文学顕彰碑」が建立された経緯をまとめたものだ。


地図の発行

  • 下北沢一帯の文士旧居、芸術家旧居などを記した地図を発行している。その名称は「下北沢文士町文化地図」である。改訂に改訂を重ね、現在では改訂五版を数える。総発行枚数は三万八千部に達した。現在改訂五版を無償配布している。

 なお、文士町地図を大型の看板にし、世田谷代田駅前吹上館、北沢川緑道二箇所にこれを設置した。[11][12]


戦争経験を聴く会、語る会の開催

  •  年々戦争体験者が少なくなっていくところから、この体験を聞き出し、二度と戦争は起こすまいということで毎年「戦争経験を聴く会、語る会」を五月に開催している。

2012年、第五回、「海軍第14期飛行予備学生の話を聞く」(於 北沢タウンホール) 2013年、第六回、「元特攻兵 前村弘さんの話を聞く」(於 北沢タウンホール) 2014年、第七回、「学徒動員者と北朝鮮引き揚げ者の話を聞く」(於 北沢タウンホール) 2015年、第八回、「疎開学童と特攻隊」(山崎国民学校の例) 五月に開催予定。


戦争経験の記録

  •  戦争経験については会の活動を通して、多くの体験者からこれを聞き出し、準公式ブログに記録している。全国の多くの人がネットの検索でこれを引いて来ている。そんな中から戦争についての新しい情報がもたらされた。まず刀の代わりに鉛筆を持って闘っていた「鉛筆部隊」が存在していたこと。次に、淺間温泉に滞在していた特攻隊「武揚隊」の遺墨が新たに発見された。これらの経緯については記録に携わった当会の担当者がノンフィクションとして物語に書き残している。『鉛筆部隊と特攻隊-もう一つの戦史-』・[13] 『特攻隊と(松本)褶曲山脈-鉛筆部隊の軌跡』[14]


街歩きの実施(「都市物語を歩く」)

  •  会では毎月第三土曜日午後、街歩きを行っている。荏原一帯の文化を歩いている。回数を重ね、既に90回を超えている。

脚注

  1. ^ 2010年12月4日、北沢タウンホールで会の総会を行い。この憲章の承認を得た。
  2. ^ 「朝日新聞」東京版「児童文学作家きむらさん ブログで報告 冊子に 自転車でたどる下北沢文士物語」2006年6月24日朝刊。
  3. ^ 世田谷区地域コミュニティ活性化支援事業 平成18年度補助金交付。テーマ「北沢川文学の小路」
  4. ^ 「下北沢X惜別物語」世田谷区立図書館 書誌番号 004389080
  5. ^ 「産経新聞」東京版、「あんこ先生 81年ぶりの帰還~下北沢の小学校 坂口安吾文学碑建立へ」2007年11月13日朝刊
  6. ^ 「新潟日報」本社発行三面記事、「坂口安吾ゆかりの門柱 教壇の地 『お帰り』・本社移譲~文学碑 東京代沢小で序幕式」2007年12月3日朝刊
  7. ^ 「読売新聞」東京都内版、「かつて教べん 世田谷の小学校 安吾先生 81年ぶりの足跡 校内に文学碑・自宅の門柱」2007年12月4日朝刊
  8. ^ 世田谷区地域の絆推進事業。平成25年度補助金交付。テーマ「下北沢文士町の社会への発信」
  9. ^ 「代田の丘の鉄塔文学論」国立国会図書館 書誌ID 024012368
  10. ^ 「北沢の丘の石畳文学論」国立国会図書館 書誌ID 025022148
  11. ^ 「下北沢経済新聞」、「下北沢に住んでいた文士の旧居跡マップ公開-萩原朔太郎、坂口安吾など」2014年01月8日
  12. ^ 「読売新聞」東京版、「萩原朔太郎や斎藤茂吉も…シモキタ文士地図完成」2014年01月15日朝刊
  13. ^ 『鉛筆部隊と特攻隊』(きむらけん著)彩流社 ISBN978-4-7791-1799-2
  14. ^ 『 特攻隊と(松本)褶曲山脈』(きむらけん著)彩流社 ISBN978-4-7791-1911-8

外部リンク

');