上田合戦
上田合戦(うえだかっせん)は、信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。
この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585年)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、徳川氏の下で小県郡を平定し、上田城を築城した。
この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。
合戦の経過
第一次上田合戦
この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも呼ばれる。
第一次上田合戦(神川合戦) | |
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戦争:上田合戦 | |
年月日:1585年 | |
場所:上田城 | |
結果:真田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
真田軍 | 徳川軍 |
指導者・指揮官 | |
真田昌幸 真田信之 |
鳥居元忠 大久保忠世 平岩親吉 |
戦力 | |
1,200 | 7,000 |
損害 | |
21~40 | 1,300(300人という説も) |
天正10年(1582年)3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。
10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。
翌天正11年(1583年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。
徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた。すると城の門が開き誘導されるかのように二の丸まで進むが、ここで落石や落とし穴などの罠に掛かってしまい、ひるんだ所を鉄砲隊の一斉射撃を受け撃退される。急いで後退するが撤退の際、城下町の逃げ道に策が張り巡らされ、立往生になってしまった所を民家の屋根から鉄砲や弓による奇襲攻撃を受ける。戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる[1]。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。
翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。
合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数カ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。
上田市立博物館には、神川合戦の合戦図が所蔵されている。
なお、この上田合戦に連動して天正13年(1585年)9月から天正14年(1586年)5月まで間、沼田城にも北条氏が数回に渡って攻撃を仕掛けていたが、昌幸の叔父にあたる城代矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退に成功している。
第二次上田合戦
第二次上田合戦 | |
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戦争:関ヶ原の戦い | |
年月日:1600年 | |
場所:上田城 | |
結果:真田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
真田軍 | 徳川軍 |
指導者・指揮官 | |
真田昌幸 真田信繁(幸村) |
徳川秀忠 |
戦力 | |
3,500 | 38,000 |
昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に臣従。後北条氏は天正18年(1590年)からの小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、豊臣政権では五大老筆頭の地位にあった家康の影響力が強まる。反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織し挙兵した(関ヶ原の戦い)。昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還し西軍に与した。これに対し、長男の信幸は東軍に従った。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされる。
徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。
小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信幸と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」というものだった。あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は「謀ったな安房守!」と怒鳴り散らし、上田城攻略を決意したとされる。この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮ることはせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言するが、兵力差が圧倒的だったこと、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かったこと、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かったこともあり、秀忠の決断を覆すことは出来なかった。
これこそまさに昌幸の思う壺だった。昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎ。この時点ですでに戦わずして秀忠隊を3日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加えることによって徳川方に揺さぶりをかけた。仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、すでに3日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えないことは明らかであり、兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ちこたえれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読みやすく御しやすい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。
徳川勢が挑発に乗らなければ良し。乗ればなお良しの二段構え。狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。
秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信幸の軍勢を差し向ける。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。信幸軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げる。これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信幸に手柄を上げさせ、信幸に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信幸軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信幸を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。事実、幸村が戦わずして戸石城を信幸に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。
戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出してきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。
それらの流れは全て昌幸の作戦であった。徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。
さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか1日で真田方の大勝に終わった。
このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参するという大失態を犯してしまった。この失態に家康は激怒し、秀忠にしばらくは対面することすら許さなかったと言われている。
松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことから、信繁が夜討・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされる。
また、結果的に大敗のきっかけを作った康成・忠成父子は部下を庇って出奔したため、一時謹慎となった。
この戦いで秀忠軍は美濃で行われた関ヶ原本戦に遅参したとされるが、実際は秀忠軍の当初の任務は中山道制圧であり、本戦の遅参は転戦を命じる使者が利根川の増水で到着が遅れたことに所以する。ゆえに「昌幸が秀忠を遅参させた」というのは正確ではない。
関ヶ原の戦いが西軍の敗北に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は戦後処理で死罪を命じられたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願などもあって、一命を助けられてはじめ高野山、のち信繁が妻を同行させることを願ったため九度山に流罪となった。
参考文献
- 柴辻俊六『真田昌幸』
脚註
- ^ 真田信幸書状より。但し、宣伝のため過大な数を挙げたとも考えられる。翌日に丸子城を攻めた事から、「三河物語」の約300人が妥当と思われる。