調所一郎
調所 一郎 | |
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職業 | 刀剣刀装研究家、企画コンサルタント |
国籍 | 日本 |
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調所 一郎(ずしょ いちろう、1960年 - )は、刀剣刀装研究家、企画コンサルタント。
人物
慶應義塾大学経済学部卒業。大学卒業と同時に医療法人、予備校、広告代理店等をクライアントとするコンサルティング会社設立。薩摩大使。薬丸自顕流顕彰会顧問。大樹総研客員研究員。
本阿弥光悦を敬愛。刀剣刀装研究家、経済、歴史研究家等として、執筆、講演活動。
鹿児島県歴史資料センター黎明館企画展「薩摩拵 -武の国の刀装-」展(2005年)、および「薩摩刀 波平 -武の国の刀工-」展(2007年)を企画。 薩摩拵については、研究第一人者としての著書、「薩摩拵」(里文出版)改訂増補新版(四版)を出版。この分野では、ベストセラー、薩摩拵再評価の機運を高めた刀剣専門書。
薩摩藩家老・調所廣郷七代子孫。藤原氏北家藤原恒親を祖とし、調所恒林は、 近衞前久より「廣」の一字拝領、廣榮と改め、調所家通し字となる(「旧記雜録家分け調所氏」参照)。
調所廣郷は、天保改革にて活躍、返済不可能と言われた、薩摩藩の天文学的借財500万両を、元金1000両に付き毎年4両250年賦払いを実現、農政・貿易・交通・治水・軍制・行政諸改革を成功させ、島津斉彬の集成館事業、幕末から明治維新に海国日本を導いた薩摩藩の活躍に磐石な基盤を築いた功労者。
先祖の遣り遂げた天保改革250年賦、英国の繁栄を招いたコンソル公債を踏まえ、日本の未来へ、財政破綻回避手段を提言した『永久国債の研究』(光文社)ペーパーバックス(財務官僚等と共著)もある。
祖父は電通にて活躍した調所廣良(旧制七高中退、慶應予科へ。戦前にNHK、敗戦間近には軍需下請の周益工業設立。のち鹿内信隆参画。戦後は七高先輩の吉田秀雄社長・島崎千里の引きで電通へ。連絡局長等歴任)。注)電通の連絡局とは、戦後まもなくはGHQ、その後は政権与党や官公庁との「連絡」を担当した部所であった。いわゆる裏仕事的側面を指摘されてきた部所であり、電通の力の源泉となっていた。近年、名称を営業局と変えた。 (出典:「日本/権力構造の謎 」K.v.ウォルフレン 早川書房/ 「電通」 田原総一郎 朝日新聞社)
父・廣志は先祖との訣別を意図し、息子達の名前に「廣」の字を使わなかった。(朝日新聞鹿児島2007年1月4日版より) 母方は幕臣、佐幕派の家系で、明治以降は内務省、宮内省官僚。大正から昭和初期の内務省官僚(警保局)・朝鮮総督府平安南道(現在の平壌・ピョンヤン)知事を務めた安武直夫(旧筑後柳川藩士族)は曾祖父である。(2011年6月21日、南日本新聞主宰からいも倶楽部での講話より) 安武直夫は台湾総督府文教局長時代から、支配民族に対して神道による皇民化教育を強く進めた。因みに、その娘婿・根村當三郎(調所一郎母方祖父)も内務省社会局(後に厚生省として分離独立)官僚として満州国の人口政策を担当した。根村當三郎の父・根村當守は宮内省官僚。
現在、元鹿児島県工業試験場長・野元堅一郎に師事し、薩摩焼の研究中。
廣郷の墓は昭和六年まで鹿児島福昌寺跡島津家墓地に存在していたが、その後、玄孫の調所廣良が東京世田谷の九品仏淨眞寺に移していた。2001年、島津家の好意もあり、調所一郎・調所謙一兄弟が九品仏から福昌寺跡墓地に分骨改葬し、遺骨・遺髪の70年振りの里帰りを果たした(出典:南日本新聞2001年12月20日・2008年12月19日版、廣郷墓石墓誌)。
著書
- 『薩摩拵』(里文出版)2003年 初版 2007年 改訂増補新版(四版) ISBN 978-4-89806-277-7
- 『永久国債の研究』(光文社)ペーパーバックス(財務官僚等と共著) 2009年初版 2010年重版 ISBN 978-4-334-93462-0