西馬音内の盆踊
西馬音内の盆踊(にしもないのぼんおどり)とは秋田県雄勝郡羽後町西馬音内で行われる盆踊りである。毎年8月16日から18日まで西馬音内本町通りにおいて行われる。阿波踊り、郡上おどりと合わせて日本三大盆踊り、毛馬内の盆踊、一日市の盆踊と合わせて秋田県三大盆踊りと称される。重要無形民俗文化財。
歴史
西馬音内の盆踊の起源・沿革については、全く記録されたものがない。県内の盆踊りの歌謡などを採録した菅江真澄(すがえますみ)の書物や、院内銀山(旧雄勝町)の医師であった門屋養安(かどやようあん)の日記にも近隣の芸能はでてくるものの、西馬音内の盆踊の記述はない。ただ、凶作の年でも中止されることもなく続けられたと伝えられ、当初から、多くの人々の熱意と愛情により踊り継がれたことがうかがえる。
もっとも古く残る伝承によると正応年間(1288-93)、修行僧源親が蔵王権現(現在の御嶽神社)を勧請し境内で豊年祈願として踊らせたものという。
それ以後の伝承は近世のものが2つ事柄に関して伝わっている。中世において、鎌倉政権と奥州藤原氏との戦いである奥州征伐(1189)の功により雄勝を領有し、西馬音内城(現在の郷ノ目周辺)を小野寺氏が築城して一帯を治めるようになり、付近の地域は比較的平和な時代が続いた。伝承は、この治世の終末期にまつわる言い伝えで、一つ目は、文禄2年(1593)西馬音内城で矢嶋城主大井五郎満安が自刃したのを悼み、遺臣・侍女たちが盆に城下で踊ったのが始まりとする説、もう一つは、慶長6年(1601)最上勢の進攻により西馬音内城は自焼落城し、城下の堀廻(現元西地区)および前郷(現西馬音内地区)に土着帰農した遺臣も少なくなく、在りし日を偲んで毎年盆踊りをしたとする説である。
前郷に住み着いた人々は蔵王権現の豊作踊と一緒になり、盆の16日から20日までの5日間、西馬音内寺町の宝泉寺の境内で踊ることになった。年とともに盛んになって、お寺の境内で踊れなくなり、天明年間(1781-88)場所を本町通りに移したと伝えられる。尚、堀廻に残った人々は、城山の下(現在の梺(ふもと)付近)で踊った。明治27年(1894)の洪水でこのあたりが荒廃したので、翌年からは役場(今の元西支所)前で踊ることになった。明治42年(1909)の盆は、たまたま近所に重症の病人があり、踊太鼓の響が堪えられないと訴え、家人の願出により、人の命には代えられないと踊は中止された。現在は、「元城(もとぎ)盆踊り保存会」が中心となり、8月14日に開催されている。 [1]
大正年間にはいよいよ盛んになった盆踊りに対し警察の「風俗を乱すもの」としての弾圧があり、一時は非常に衰えた。しかし盆踊の復興を望む住民感情が高まり、時の町長柴田養助など、私財を投げ出してまで復興を望む人もおり数年後には元のように盛んになった。
昭和10年、県の推薦によって日本青年館主催の「第9回全国郷土舞踊民謡大会」に出場した。時の町長自ら踊り子やスタッフとともに乗り込み、満場の喝采とともにラジオや映画によって全国的に有名となり、一層の活気を呈するようになった。また、この時に盆踊りの形態は現在の型に整ったといわれている。
昭和20年、第二次世界大戦敗戦と同時に初めて盆踊りが中止された。しかし翌年、犠牲となった戦没者を慰めるために再開され、以後一度も中止されることなく現在に至っている。
昭和22年、戦後間もなく、食糧も乏しかった時代ではあるが、西馬音内盆踊りの振興および保存・伝承を目的として「西馬音内盆踊保存会」が住民の「誇りと愛情」により設立された。
昭和33年、盆正月の行事も新暦で行うことになり、盆踊りの開催は8月16日~18日までの三日間となった。
昭和46年11月、文化庁長官より、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財として選択。同12月には県教育委員会より、秋田県無形文化財として指定された。
昭和56年1月21日、盆踊りとしては全国で初めて国の重要無形民俗文化財に指定された。
同年、アメリカ・サンフランシスコの桜祭りで初めての海外公演が行われた。このときの活躍は地口の歌詞にもなっている。以後、平成12年、ハンガリー、フランス、同13年、韓国、同16年アメリカ・ミネソタで、同18年、モンゴル(建国800年記念)、などの海外公演が行われ、国際交流の一翼を担っている。
平成3年、東北新幹線が盛岡まで整備され、JRがキャンペーンでとりあげた。このころから、観光客が増え始めたと言われている。
平成11年、第七回地域伝統芸能全国フェスティバルにおいて、長年にわたり地域伝統芸能の振興に貢献したとして、秋田県で初めて地域伝統芸能大賞を受賞した。
同年、開催中にテレビ朝日放送の「ニュースステーション」で実況生中継が行われた。
平成15年には、長年にわたり盆踊りの保存伝承に貢献していることが高く評価され、サントリー地域文化賞を受賞した。
平成17年8月、西馬音内盆踊り会館、かがり火広場が完成した。盆踊り会館は、伝統の踊りの保存・継承、踊り会場の拠点として作られ、保存会の練習会場として使われるほか、盆踊りの本番には実行委員会の本部およびお囃子のやぐらとして活用されている。
平成23年7月、西馬音内の盆踊を歌った「西馬音内盆唄」(唄:城之内早苗、作詞:喜多條 忠、作曲:田尾将実、編曲:南郷達也、B面「遠い花火」)がテイチクから発売された。PVには西馬音内の盆踊の実際の映像や衣装などが使われている。
現在はかがり火を囲んだ細長い輪をつくり、母から子へまたその子へと受け継がれてきたという昔を物語るひこさ頭巾とあでやかな端縫い衣装をまとった踊り手がにぎやかで勇ましく鳴り響くお囃子の音色を聞きながら、夕方から夜更けまで舞われる。野性的な囃子に対し、優雅で流れるような上方風の美しい踊りの対照が西馬音内の盆踊の特徴である。
端縫(はぬい)
端縫い衣裳は、特有の美しい踊り衣裳で、女性の踊り手が用いる。四種も五種もの絹布(けんぶ)をはぎ合わせたもので、帯もしぶ味好みのものが多く、結び方は御殿女中(ごてんじょちゅう)風な形になりその上に、赤か紫・黄のしごき(並幅の布を、そのまま用いる帯)を締め、蝶結びにして、左側に下げる。
二枚の布をはぎ合わせるため昭和初期までは「はぎ衣裳」と呼ばれていたものが、少し布端を折り返して縫うことの「端縫い衣裳」と呼ばれることが多くなった。 盆踊りに先立ち、各家々での着物の虫干しをみることのできる「藍と端縫い祭」では、約400年以上前の藍染め衣裳や、端縫いに真綿を入れた衣装も展示される。以前、送り盆の季節に朝まで踊られていたころは、防寒用の着物の中着である胴着で踊った時代もあった。
端縫い衣裳は、黒で縁取られ、絹の色柄を左右対称に見事に配色している。先人のセンスの良さは、美の国秋田を象徴している。多数の観客の目にふれる踊り衣裳に西馬音内女(にしもにゃおなご)たちが強い関心と工夫をよせ、絹の端布を愛おしみ、おもいおもいに図柄や配色に苦心をしながら端縫い衣裳を縫いあげたことが、しのばれる。端縫い衣裳は、祖母から母へそして娘へと受け継がれる。昭和初期から中期までは、絹を利用した端縫い衣裳はよほどの旧家などしか持っておらず、さらには、成熟した心身が踊りに表れ、魅了されるような踊り手でなければ着ることができなかったといわれている。
編み笠
よく乾燥させた、い草を材料として作られ、半月形よりも両端が張り出した形が特徴的。両側の側面に芯の入った赤いくくり紐を結びかぶるとき開きすぎて顔が見えることのないよう、笠の前後を赤い紐または布でとめる。それを前被りにかぶって踊る。端縫い衣裳や藍染め衣裳に用いられる編み笠は、女性の首すじを美しく浮き立たせ、深くかぶった笠から覗く、赤い紐や唇は艶っぽく、踊りを引き立てる。
西馬音内の盆踊の編み笠は、両端が張り出した形のため、機械での生産は難しく、すべて手作りで作られる。手がかかるため、一つの笠を作るのに2~3日はかかり、価格も1万円~2万円ほどである。廉価な編み笠も出回っているものの、数少なくなってしまった地元の作り手が作った編み笠をかぶって踊ることを望む人も多い。
藍染
端縫とならんで西馬音内の盆踊の踊り手が着る浴衣に藍染がある。その多くは手絞りの藍染めで、江戸時代後期、平鹿・浅舞地方で発達した「上絞り」の技と「藍染め」の術で、それぞれの町家の婦人たちによって作られて以来、続いているものである。とくに、西馬音内で着用されている藍染の浴衣は、その柄も個性豊かで変化に富み、袖には赤い布が縫い付けられている。浴衣は、腰紐をしめたうえに、だて巻きか角帯をいて着くずれをとめ、その上に端縫い衣裳と同じように赤か紫・黄のしごきをしめ、蝶結びにして、左側に下げる。
江戸時代に制作されたもの現存し、現在でも着用されて現役のものもある。浴衣は、踊った後すぐかその翌日、水洗いをして汗や汚れを落とし、のり付けをして夜の踊りに着られるようにする。幾度となく水をくぐった藍染めの色は、年を重ねるごとに色が冴え、踊り姿を照らす赤い「かがり火」に色鮮やかに映えるようになる。旧家しか端縫いを持っておらず、さらには上手でなければ着ることができなかった時代には、藍染めの踊り浴衣はもっとも一般的な衣裳であった。一時期、端縫い衣裳ばかりが取り上げられたため、端縫い衣裳の踊り子が多くなっていたが、最近、盆踊りの直前の8月第一日曜日に「藍と端縫いまつり」が行われるようになり、藍染が再認識されている。
ひこさ頭巾
西馬音内の盆踊が亡者踊りといわれるゆえんの一つに独特の頭巾(ずきん)の存在がある。踊りの輪の中に黒い覆面の踊り子が多く入っている情景は、いかにも妖しい雰囲気をかもしだし、踊りの中の黒い覆面、ひこさ(彦三)頭巾は、亡者を連想させるからである。
ひこさ頭巾は、麻や木綿などの黒い布で、前長さ85cm、後長さ69cm、幅31cmの袋状で、目だけが見えるように目穴を開け、その中央には黒いボタンが縫い付けられているものである。目を目穴の位置にあわせて、豆絞りの手拭などで鉢巻きをしてとめる。由来については以下のような説がある。
- 農作業(日除け・虫除け用)に用いる黒布の覆面に由来するという説。この覆面は、秋田県由利地方で「はなふくべ」、山形県庄内地方では「はんこたんな」と呼ばれる。
- 明治初期に東京の歌舞伎芝居をみた西馬音内の人が役者の後見をする黒子の用いる黒覆面から思いついて作ったという説。そのときの役者が坂東彦三郎で、その名に因んでひこさ頭巾としたという説だが、記録はない。
- 鹿児島県与論町の与論十五夜踊りにも、類似した頭巾が使われているので何かゆかりがあるのではという説
踊り
宵闇せまる頃、会場であり本町通りに、かがり火がともされ、寄せ太鼓が鳴り響くと、子どもたちが豆絞りの手拭の鉢巻きと浴衣などに身を包みやぐらのそばに集まる。とりわけ、「馬音川の産湯につかった」と音頭の地口にうたわれる地元で生まれ育った踊り子たちは、物心つかない頃から踊りを覚え、輪の中に加わるのである。子供はやがて大人になり、その子供に踊りを伝えてきた。先祖をしのび、豊作を祈り、平和で豊かな生活への願いがこめられ、老若男女を問わず、西馬音内盆踊りに関わるすべての人により受け継がれてきたといえる。そうした想いは、盆踊がからだにしみこんでいるような地元の人々の心に焼きつけられ、女性が他所に嫁いでも、種々の理由で都会に行ったとしても、期間中は里帰りして踊る人が多く、まさに、西馬音内盆踊りは「心のふるさと」となっている。
囃し方の掛け声とともに盆踊りが始まり、始めは子どもたちの踊りで、夜が更けるとともに輪が大きくなり、子どもたちの姿がいつしか消えてゆく頃には濃い藍染め衣裳や、あでやかな端縫い衣裳の踊り子たちが加わって、しだいに熱をおびた大人の世界になっていく。
にぎやかで、勇ましく野性的なお囃子に対し、ゆるやかで流れるような動きに、しなやかな手振りと優雅な足さばきの上方風の美しい踊りとの対照が西馬音内盆踊りの「不調和の調和」ともいえる特長である。踊りには「音頭」と「がんけ」がある。
「音頭」と「がんけ」
踊りには「音頭」と「がんけ」がある。1日の踊りは「音頭」で始まり、「がんけ」と交互に繰り返された後、最後は「がんけ」で終了する。最初の「音頭」の始めの部分は子供の参加が多い。一日に2回、踊りの最中に会場係が参加の記念品を輪に加わっている踊り手一人一人に配る。最初の時間帯の記念品は西馬音内盆踊りの刻印の入った鉛筆やボールペンなどで、遅い時間帯の記念品は西馬音内の盆踊に関係するデザインの日本手ぬぐいである。「音頭」と「がんけ」にはそれぞれ歌詞があり、基本的に西馬音内の方言である。
「音頭」には、一番と二番があり、それを交互に踊る。踊り開始の午後7時30分から午後9時ごろまでの間は初心者や子供たちの時間として「音頭」の時間となっている。「音頭」の踊りは西馬音内盆踊りの基本であり、最初に覚えるべき踊りで、地元の子供はまずこれを練習する。「音頭」には賑やかな囃子にあわせて社会性のある歌詞や艶っぽい歌詞の唄が入り、歌い手は複数の囃し方の男性が交代で担当する。「音頭」の歌詞は地口と呼ばれる。秋田県民謡の「秋田音頭」と同じものが多く含まれる(「秋田音頭」のルーツと考える説あり)が、即興的な歌詞も魅力の一つとなっている。その日の一発目の歌詞は「時勢はどうでも 世間は何でも 踊りコ踊たんせ 日本開闢 天の岩戸も 踊りで世が明けた」で始まるのが慣例であり、その後は順不同で歌い手それぞれの得意な唄が順不同で繰り返される。唄い手は年期を重ねるごとに深みが増し、その歌声は踊りをいっそう引き立てる。地口の内容は、口から出放題の即興的なもの、ユーモアに満ちたもの、世間世事を風刺したもの、野趣にあふれるもの、時局時事を皮肉り、ときには支配層への抵抗をみせたもの、楽天的な中に農民特有の素朴なエロティズムを匂わせたものなど、多彩である。以前に比べると自主規制的に性的表現が強い唄は控えられたり、最終日の終盤まで温存されるようになった、といわれている。地口は、がんけ唄とともに、生まれては消え、消えては生まれたものであったが、今なお、昭和初期から唄われ続けている代表的なものも健在である。
「がんけ」は一転して哀調のある囃子となり、哀調ただよう歌詞(がんけ唄)が歌い手である囃子方の男性の合唱で歌われる。踊りは優雅だがダイナミックで、「音頭」に比べると疲れにくく長時間踊る事が比較的容易なため気分よく踊り続ける事ができ、常連の踊り子は男性でも女性でもこの踊りを好んでいる。「音頭」と同様に1番と2番の踊りがあり、繰り返し踊る。1番と2番の踊りでは、ともに途中でクルリと一回転するところがあって草履が擦り切れやすいため、道に砂を撒き、草履がすり減らないための配慮がなされる。がんけは、月光の夜を飛ぶ雁(かり)の姿を踊りから連想した、「雁形(がんけい)」、仏教伝来の「勧化(かんげ)」、現世の悲運を悼(いた)み、来世の幸運を願う「願生化生(がんしょうけしょう)の踊り」がつまって「願生(がんけ)踊り」と呼ばれたとの諸説がある。
夜も更けて一日の踊り終わりの時間が近づくと、囃し方は最後に演奏を速くしたり遅くしたりといったことを繰り返す。演奏の限界と思われる速さまで徐々にスピードをあげ、踊り手も負けじと素早い身のこなしで踊りついていく。その日の踊りのフィナーレの恒例であり、このとき、踊りは必ず「がんけ」である。踊りがしみついている常連の踊り手は囃し方のスピードアップを楽しんでおり、囃子に遅れることなく踊ることで、囃し方や会場の観客との一体感を演出している。
地口
ヤートーセ ヨーイワナー セッチャ
タカサッサー ドッコイナ (地口前半)アーソレソレ(地口後半)タカサッサー
(以下繰り返す)
地口の代表例
(おそらく何百単位の地口があり、即興で出るためバリエーションいろいろあり)
♪ホラ 時勢(ジセイ)はどうでも世間(セケン)はなんでも 踊りコ踊タンセ(オドリコオドタンセ)
日本開闢(ニッポンカイビャグ)天の岩戸(アマノイワト)も 踊りで夜が明けた
♪ホラ 見れば見るほど優しい踊りで 拍子(ヒョウシ)も穏やかに
天下(テンカ)は泰平(タイヘイ)五穀(ゴコグ)は豊作(ホウサグ) 百姓(ヒャクショウ)オオアダリ(大当たり)
♪ホラ ドドンと響(ヒビ)いた櫓太鼓(ヤグラダイコ)に 集まる踊り娘(オドリコ)は
馬音(バオン)の流れサ産湯(ウブユ)コ使った 綺麗(キレイ)なジョッコ達(ダヂ)
♪ホラ 西馬音内(ニシモネ)言葉(コトバ)集めて(アズメデ)見たれば(ミダレバ) 何たらヤラシクニャ
エッピャダバ デケニャ ビャッコダバ ヤンカ ンダダテ ンデネガショ
がんけ
お囃子 ヤートーセ ヨーイワナー セッチャ
歌詞 ソラ キタカサッサー ノリツケハダコデ シャッキドセ (以下繰り返す)
がんけ歌詞(甚句)の例(地口に比べて数は限られる)
♪お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 ササ なお恋し ♪月は更けゆく 踊りは冴える 雲井(クモイ)はるかに ササ 雁の声 ♪踊る姿にゃ 一目(ヒトメ)でほれた 彦三頭巾(ヒコサズキン)で ササ 顔しらぬ
囃子
西馬音内盆踊りの雰囲気を作る重要な要素の一つがお囃子である。踊りが行われる本町通りの中央にある西馬音内盆踊り会館のバルコニーに囃子のためのやぐらが組まれる。天井正面に横締めを張りその上に小野寺氏の家紋と云われる「五もこうの紋」の入った丸提灯を下げ、左右の柱に「五穀豊穣」「豊年万作」「国指定重要無形民俗文化財西馬音内盆踊り」と書かれた丸と角の長提灯、腰には同じ紋の幔幕(まんまく)を張り、華やかな情緒を漂わせる。
楽器の編成は、笛・大太鼓・小太鼓・三味線・鼓(つづみ)・鉦(すりがね)などで、演奏者(囃子方)は大小の太鼓・鼓・鉦は各一人ずつ、笛・三味線は複数で、主旋律を演奏する笛はある程度の人数が要求される。笛は六本取りの七穴の篠笛が用いられ、三味線は、細棹(歌三味線)が用いられるが、太棹を用いる人もいる。大太鼓・小太鼓は締太鼓である。囃子方は鳴物六種のほかに、地口・がんけ唄の唄い手が加わり、向う鉢巻きに太鼓打ちは、浴衣にたすきがけ、そのほかは、浴衣に肩衣(かたぎぬ)を着て、演奏する。
お囃子の種類には「寄せ太鼓」「音頭」「とり音頭」「がんけ」の四種類がある。寄せ太鼓は踊りの踊りの始まりを告げ、踊り子の集合を促す。また、踊りの終わり、つまり、「がんけ」のフィナーレの直後、にも演奏され、近年は踊り子たちがやぐらの下に集まり、囃子方に感謝の意をこめ、声援を送ることが恒例になっている。「音頭」は、踊りのための演奏で、野趣音頭の地口(唄)とともに囃される。「とり音頭」は音頭の終了とともに始まる。流麗で高度な笛の技術を要する。音頭は音頭・とり音頭・音頭というふうに繰り返されていく。「がんけ」も踊りのための演奏で、音頭の地口より緩い調子のがんけ唄がつく。音頭とは対照的に、しみじみとした哀調を帯びる。
観光化と問題
踊りが統一されてからは、年齢が概ね15歳前後以上は男女にかかわらず、彦三(ひこさ)頭巾か笠をかぶって顔をかくすのが正式である。それ以下の子どもは鉢巻一本(豆絞り)で顔を見せる。特に10歳未満では眉間から鼻にかけて一筋の白粉を付けるのが伝統的である。浴衣は藍染か伝統的な端縫いを使用する。特に女性の踊り手が使用する端縫いは、地元では長年の経験者、心身共に成熟した人が着るという伝統があった。先人たちが大切にしてきた盆踊りへの思いを受け取るなら、そういう域に達するまでは、絞り染め浴衣での参加が望ましい。端縫いには必ず笠を組み合わせる。
例外で地元学校教育における生徒による舞台公演等では、年齢や技術が満たなくとも、紹介の意味で端縫いを着用する。端縫い衣装は購入したり、作ってもらうことができるが、地元では伝統に基づいた端切れを組み合わせるコーディネーターがおり、依頼者、コーディネーター、縫い手の三者で端縫いを仕上げるのが一般的であった。伝統的なコーディネーターは、町内の踊り手でも、端縫いを着るにふさわしい踊り手からや信頼できる筋からしか仕事を受けない。そのため、踊り手人口の増加は端縫いの需要に対し供給が少ない事態を招き、主に町外の着物業者が伝統を無視した端切れをそれらしく組み合わせたものや、反物を3、4種類組み合わせた浴衣を端縫い衣装と称して販売する機会を許してしまった。現在の端縫いの多数はそういった浴衣である。
観客は踊り手を囲むようにして集まり、最近では、一晩で数万人の人出となり、人口約2万の町に、会期の3日間でのべ10万人を越す人が押し寄せることになっている。町の活性化となる一方、混雑を極め、満足に盆踊り行事を行うことも観ることも出来ない状況になっている。こういった状況の中で、地元の人々は、コミュニティセンターでの盆踊りと囃子の紹介や、昔がたり館での吉田人形芝居や昔話の実演などでも、おもてなしのこころを伝えている。
盆踊り期間中は、ホテルや旅館のキャパシティが不足している。宿泊しないで深夜に帰る各地からのバスツアーや、観光後に、田沢湖、角館などの近隣観光地に移動する通過型バスツアー等が毎年数多く募集される。こうした状況に対しては、町観光物産協会が窓口になり、地元民家や、廃校再生施設へのホームスティを紹介している。また、県グリーンツーリズム協議会に参加している農家民宿など、秋田のまごころを伝える宿も好評である。[2]
小雨決行であるが、本格的な雨の場合には、町内の総合体育館、活性化センター、コミュニティーセンター等室内ホールを備える施設に場所を変えて分散し行う。踊りが始まってから雨天になった場合には、開催時間の短縮があっても、会場の変更はない。会場変更になった場合、かがり火もなく明るいため風情は通常の踊りよりも遠く及ばないものの、観光客への感謝と、踊りたくてたまらない常連の踊り手たちに対する場の提供ともなっていた。
ただし、1日あたりの観光客数万人に対し、ホールのキャパシティーは三つの施設を逢わせても数千人程度である。2004年8月18日は、観光客が数万人規模となった近年で初めて、雨天による会場変更となったが、観光客への対応が事前に周知徹底されていなかった。そのため、会場に収まりきれないほどの観光客が情報や会場への入場を求めて殺到し、結局、会場に入れずに帰途についた観光客が大多数出てしまった。後日、この対応について、羽後町役場には抗議や苦情が電話・サイトの掲示板の書き込みで殺到した。そのため、羽後町役場サイトの掲示板は担当者が対応できずに閉鎖となった。なお、抗議や苦情に対して、主催は西馬音内盆踊り実行委員会であり、羽後町(羽後町役場)、西馬音内盆踊り協賛会、西馬音内盆踊保存会、羽後町観光物産協会、羽後町商工会は協賛であるとの立場を取っている。
古くは、地元以外の踊り手については、参加を遠慮するのが地元住民への配慮と暗黙のルールであった。しかし昭和50年代には参加者が減少、それまで踊りに参加することを控えるのが常識とされていた町外から嫁いできた女性、興味があったものの西馬音内地区以外だった町内の人、小中学校などでも、児童生徒に積極的に参加を呼びかけ伝統芸能を絶やさぬようにとの地道な努力が行われた。どうじに、町外へ嫁いだ女性が嫁ぎ先で教えた仲間をつれて参加する様な形で、踊り手の減少は収まってきた。この時代は、踊りの師匠格が許可しないと端縫いを着ることができなかったので、端縫い衣装で踊る踊り手もそれほど多くなかった。
この頃、西馬音内盆踊保存会の活動から分かれたお囃子の男性数名が、羽後町商工会青年部の活動として独自に商業的、観光的に盆踊りを町おこしに積極的に生かした「北の盆」が登場する。「北の盆」の構成メンバーは当時、伝統文化に携わる者としては非常に若く、話題性もあり、男性メンバーは元々アマチュアバンド活動で県内ではそれなりに知名度があったことから、地元メディアや上々颱風とのジョイントライブなどの芸能人とのつながりを生かし、町外はもとより県外に広く盆踊りを認知させた。このようなマスメディアへの登場を成功と捉え、観光化が町を上げて行われ始めた。同時期に、西馬音内盆踊保存会も東日本を中心に各地のイベントへのゲスト出演依頼が増え、参加することが多くなった。結果的に見る観光だけでなく、その踊り、端縫い衣装の美しさから参加する観光客を増加させる要因ともなった。
こうした変化の中で、地元の人たちにとってかけがえのない送り盆の祭りは、多数の参加型観光客に対する対応が遅れ、踊り全体としての質とレベルの下落を招いた。北の盆と西馬音内盆踊保存会は、分離の際の意見の違いから公式には交流がなく、盆踊り開催期間中のお囃子のメンバーには北の盆のメンバーはいない。かつては、お囃子の名人の朗々とした唄が踊り手を魅了していたが、現在は、実年層である北の盆世代が、保存会に少ないため、若年層が囃子の唄をうたうことも多い。若年層と熟練層では、日常の秋田弁の使用度が大きく異なっており、後継者の育成が望まれる。
踊り手は、北の盆と保存会の区別なく関わっている人が多く柔軟である。踊りについては元々、熟練者ごとの若干の癖が良い個性となって受け継がれているが、保存会は舞台上での統一感を求め、全員同じ踊りを覚えさせられる。北の盆は自分の踊りでかまわない。そのため、保存会の踊り手の多くは、公演時と自分の踊りの2種類を状況によって踊り分けている。踊りを見て踊り手の師匠や出身が分かるほどの熟練者もいるが、皆、高齢となり昔ながらの踊りの伝承者は少ない。
西馬音内盆踊り会館は平成17年にオープンした。盆踊りの衣装の展示のほか、小規模のイベントが行えるホールがあり、町立図書館が併設されている。
今後は、西馬音内の盆踊を大切に思う人たちが、こころを合わせ、踊りや囃子を含めた文化を再生してゆくことが望まれる。それは、西馬音内の自然や暮らし、民俗や歴史を学ぶこととも重なってゆく。西馬音内の盆踊は、いま、古くて新しいふるさとを生み出す試みのひとつになろうとしている。
商標問題
一般的には「西馬音内盆踊り」として知られているが、文化財指定名称は「西馬音内の盆踊」である。観光ガイドやホームページでも、前者が用いられることが多い。 産業が少ない町にとっては貴重な観光資源であり、商店の収入源になっている盆踊りであるが、「西馬音内盆踊り」の名称を町内在住の個人が商標出願を行って認められたため、後になって町議会で取り上げられる等、問題となった。なお、商標出願の際に、保存会や実行委員会の承認は得られていなかったとされる。関係者とその個人の関係は泥沼化しており、再三にわたる交渉が行われているといわれるが、解決には至っていなかった。 2006年8月、宮城県仙台市青葉区勾当台公園で2006年8月12日、13日に西馬音内盆踊りイベントを開催するTVCMが宮城県内で放送された。 このCMを見た視聴者からの問い合わせが羽後町役場等に寄せられ、全く無関係であった事等から事実確認を行った所、仙台市内の愛好者団体が参加する自主開催であるとの情報を得た。 羽後町は主催者へ開催中止を申し入れたが、主催者側との交渉は難航した。 最終的に開催は中止されたが、皮肉にも主催者側に開催を断念させた主な要因は西馬音内盆踊りが商標登録されていた事だった。 以上のような事態への苦肉の策として2008年8月、「西馬音内の盆踊」を羽後町役場が商標申請した。 なお、羽後町役場が商標登録を行った事は、盆踊りに関心のある町民でもほとんど知られていない。 平成21年4月15日発行の羽後町議会広報第106号において、菅原憲治議員の「商標登録問題はどうなっているか?」との質問に対し、大江尚征町長が「盆踊り実行委員会を法人化し譲り受ける事になっている。」と回答した。 平成21年4月盆踊り実行委員会は「一般社団法人西馬音内盆踊り実行委員会」として法人化、商標が譲渡された。
西馬音内そば他
西馬音内には昔からの蕎麦屋が何軒かあり、「冷がけ」と呼ばれる冷たくしたかけそばが名物になっている。ダシも、店それぞれに工夫があり、同じものがないのが特徴だ。踊りが始まる前に蕎麦屋で蕎麦を食べる観光客が多い。最近では、グリーンツーリズムの取り組みとして、地元産の蕎麦を生産する人たちも増え、蕎麦懐石や、蕎麦焼酎も好評である。
盆踊り会場の近くでは、古くからの市も立ち、約400年の伝統がある。また、西馬音内スイカやメロン、蕎麦まんじゅうや、日本酒、元祖焼きそばなど、おいしいものが多い。
参考文献
- 「羽後町郷土史」。羽後町郷土史編纂委員会編集、1966年。
※『西馬音内盆踊り わがこころの原風景』小坂太郎著/2002年/影書房刊 [3]