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帆足万里

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帆足 万里(ほあし ばんり、安永7年1月15日1778年2月11日) - 嘉永5年6月14日1852年7月30日))は、江戸時代後期の儒学者経世家。父は豊後国日出藩家老帆足通文。字は鵬卿。号は愚亭など。三浦梅園広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人と言われる。


略伝

1791年寛政3年)万里が14歳の時、脇愚山に学び、21歳の時に大阪中井竹山京都皆川淇園にも学ぶ。その後30歳前後には一人前の学者となり、日出藩の藩校の教授となり、1832年天保3年)日出藩家老となり財政改革に行った。藩主の懇望を受けたが辞して承諾せず、「一度任せたからには、後から口出しをしない」という約束の下に、これまでの家老をやめさせ自分が有能・公正を見こんだ人々を役職につけ、倹約を旨とし、自ら算盤をとり藩の帳簿を調べ、これまでの役人の不正を明るみに出した。改革の3年後には、大いに成績をあげ、藩が大坂商人に借りていた金を返していく方針が立った。

致仕した後、私塾西崦精舎(せいえんせいしゃ)を開いて子弟の教育にあたっている。1847年に万里はにわかに門人を引き連れて京都にあがり、翌年まで滞在していたことがある。これは京都に学校を興してそれにより朝廷の威光を増そうという計画だったともいう。75歳で没する。体は弱い方だったが、人一倍衛生を重んじ、食物に気をつけて養生したので長命を得たという。

学問

万里は経学・史学・経世の学に専心したといわれるが、一方で、自然哲学者・三浦梅園の影響により窮理学に関心を持ち、40歳頃から藤林普山の『訳鍵』を手に入れてオランダ語を修得し、ヨーロッパ自然科学を学んだ。その蘭学の範囲は、天文・物理・博物学・医学・地理などにわたる。皇室を尊びながら偏狭ではなく、門下に西洋について学ぶものが多く出た。

万里の著書『窮理通(きゅうりつう)』は日本における自然科学史に画期的な文献である。明治年間にオランダのフルベッキが『窮理通』の説を聞き、江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたという。

「万里の本領は文章にある」とする見方は生前からあった。彼は「古文」を唱道して後進に教え、その古文は荻生徂徠と異なり、文字ではなく文体を古体に則る。つまり、秦漢以前の文を模範とし、唐宋以下の文を骨力がなく軟弱であるとして軽んじた。たとえばその著書『井櫻纂聞』などは、「剄簡にして動かすべからざるの力あり」と評される。

その他の著作

  • 『東潜夫論(とうせんぷろん)』
  • 『仮名考』
  • 『四書標註』
  • 『荀子標注』
  • 『修辞通』
  • 『肄業餘稿』
  • 『入学新論』
  • 『五経標註』
  • 『西崦遺稿』

参考文献

外部リンク

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