コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

足利事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。UWPAD100 (会話 | 投稿記録) による 2010年12月15日 (水) 14:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (関連項目)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

足利事件(あしかがじけん)とは、1990年5月12日日本栃木県足利市にあるパチンコ店の駐車場から女児(4歳)が行方不明になり、翌朝、近くの渡良瀬川河川敷で遺体となって発見された事件。犯人として逮捕起訴され、実刑が確定して服役を余儀なくされた菅家利和と、遺留物のDNA型が一致しないことが2009年5月の再鑑定により判明し、無実冤罪であったことが発覚。服役中だった菅家はただちに釈放され、その後の再審無罪が確定した。

事件発生日時に、真犯人と思われる男が目撃されていたことやその目撃者の存在などの事実が近年判明し、そうした真犯人の存在を示す情報は菅家が求めていたDNA再鑑定の実施を後押しし、菅家の無実・冤罪判明、無罪確定・釈放を実現させる上で大きな役割を果たし、事件自体の真相解明の糸口や証拠ともなっている。菅家の冤罪発覚が、菅家が無実を訴えていたからだけでなく、事件の事を調査していたら、真犯人の存在など事件自体の真相を示す証拠が見つかったから、菅家のDNAの再鑑定を実施したらやはり無実だとわかった事がこの事件の特筆すべき点である。

時効制度の是非が問われる事件でもある。

また、近年の当事件関係の報道は、菅家への冤罪問題に重きを置き、ジャーナリストの清水潔の記事や下野新聞の記事以外は、事件自体の真相や被害者や被害者遺族の気持ちに則した報道は軽く扱われている傾向がある。

被害者遺品返還拒否や公判傍聴拒否締め出し等、検察警察による被害者遺族への無礼な姿勢も露見される。

概要、経過

事件発覚から逮捕まで

1990年5月12日
父親が足利市内のパチンコ店でパチンコをしている間に、同店駐車場から女児(4歳)が行方不明になる。被害者の女児は当時赤いスカートと白いシャツという服装であった。
5月13日
女児の他殺体が、渡良瀬川の河川敷から発見される。犯人は逃走。
事件発生時の時間に現場付近の運動公園にいた多数の人物が、赤いスカートを履く被害者の女児を連れて歩く不審な男の姿を目撃しており、警察にも証言している。そのうち、日本テレビの番組が探し当て取材協力を要請した買い物途中の主婦、買い物途中の女性美術教師、ゴルフ練習をしていた男性などは、テレビ取材にも応じている。
事件後に情報提供を求むビラや報道で被害者の特徴が繰り返し報道され人の目に触れる機会が多かったことや、目撃した女児の服装が事件当時の夕方でも目立ちやすく印象に残りやすい赤いスカートであった事などから、目撃者の記憶に今でも鮮明に残っている。女性美術教師は近年になってもその時の光景をスケッチに描けるぐらいで、実際に当時警察でもスケッチを提示し、日本テレビの取材でも同じようなスケッチを提示している。(は、膨張色、進出色、警戒色であり、暗い場所でも視認されやすい色である)。
ゴルフ練習をしていた男性は目撃した男について「マンガのルパンみたいだった」と話している。
実際にこの目撃証言を裏付けるようにこの不審な男と被害者の女児が歩いていった先の中州で被害者女児の遺体が発見されている。
【参考 バンキシャ等】
1990年5月~1991年12月
栃木県警察は当初は前述の目撃証言を元にした捜査を行っていたが、わずか数ヶ月(1990年5月~12月ぐらいまで)でその方面の捜査を取りやめ、「独身男性で子供が好き」というプロファイリングに則り聞き込みなどの地取り捜査方針に切り替えている。その途上でプロファイリングに合致した菅家が浮かび菅家をマークする身辺捜査を開始する。菅家には前科・前歴はなかった[1]
プロファイリングを元にした聞き込み捜査から菅家が一人暮らし、子供好き、実家と別の借家との往復という生活という情報を入手し、菅家をマークしたわけだが、前述のプロファイリング自体が、即、犯罪性のある人物像に繋がるわけでもなく、それに合致しただけの菅家の単なる生活習慣も、即、不審人物視、不審行動に繋がりえない上、その情報提供者である住民の証言が菅家を明確に不審視する旨の証言だったのかどうかも不明。また、同じ時期により確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしていた。【参考 下野新聞】
1991年1月頃に、菅家は勤務先への刑事の聞き込みが原因で解雇され、以後失業。
菅家自身に、犯行に結びつく反社会行動、不良行為や不審行動はおろか、マナーやモラルの欠如した振る舞いなどの事実も一切確認されていない。それどころか尾行中の刑事が菅家の挙動について「立ちしょん一つしない」と表現したように、菅家は人並みかそれ以上に公共のモラルはきちんとしていた人物のようである。後述の菅家のDNAサンプルが付着したティッシュペーパーが含まれたゴミ袋も菅家はゴミ出し指定日に指定ゴミ収集場にきちんと捨てている[2]
1991年12月2日
同市内に住む菅家を、猥褻目的誘拐殺人の容疑で逮捕。
逮捕の決め手は「女児の下着に付着していた体液のDNA型と菅家のDNA型とが一致した」こと。しかし、1991年の時点におけるDNA型鑑定の技術では、別人であっても1.2/1,000の確率でDNA型も血液型も一致する可能性があった[3]
栃木県警察本部は、総勢180人余の捜査本部を設置して捜査をおこなっていた。
警察が任意同行を求めた理由とされる菅家のDNAサンプルは、先に菅家が指定ゴミ収集場に捨てたゴミ袋より収集した体液の付いたティッシュペーパーから検出したものである。その時のゴミ収集が菅家や市町村役所の環境保全課などのゴミ回収を担当する管轄部署への令状発行、許可などの履行を行った上での活動だったのかは不明。
菅家の父親は逮捕後まもなくショックで亡くなった。無実を信じていた母親も釈放の2年前に亡くなった。逮捕前々日の11月30日に栃木県足利市の実家で一緒に過ごしたのが最後となった。菅家は釈放後、「亡くなったと聞かされ、本当に胸が詰まった。事件が、家族も、自分の人生もばらばらにした」と語った。

取調べ、裁判

1991年12月1992年
菅家は警察や検察の取り調べ時に犯行を自白し、犯行を認める上申書を提出(情状酌量ヲ考エタ弁護士ノ助言ニヨル)したが、 第一審の途中(第6回公判)から否認に転じ、無罪を主張した。
当時、DNA型鑑定は警察庁科学警察研究所に導入されたばかりであり、弁護側は「信頼性に疑問がある」としていた。
1993年
足利市内に住む西巻糸子が疑問を抱いて拘置所に手紙を出して面会を求めるが拒否される。最初の手紙から二ヶ月後に、菅家から「無実」を訴える返事が来た[4]。西巻は後に「菅家さんを支える会・栃木」代表、菅家の身元引受人となる。
1993年7月7日
宇都宮地方裁判所久保真人裁判長)は菅家に無期懲役の判決。
1996年5月9日
東京高等裁判所高木俊夫裁判長)が控訴棄却。
1997年10月28日
佐藤博史弁護士が押田鑑定書を添付して、DNA型鑑定の再鑑定の申し立てをする。しかし、最高裁はこれを取り上げなかった。
2000年7月17日
最高裁判所亀山継夫裁判長[5])が「DNA型鑑定の証拠能力を認める」初判断を示し、第一審の無期懲役判決が確定。千葉刑務所に服役した。

再審請求とDNA再鑑定

2002年12月25日
収監された菅家が宇都宮地裁に対し、再審請求を申立てる。
2008年1月
日本テレビが、ニュース特集で足利事件のキャンペーン報道を開始する。自供の矛盾点やDNA鑑定の問題点などを指摘、DNA再鑑定の必要性を訴えた。その後も繰り返し放送を行う。記者は「桶川ストーカー殺人事件」などを取材してきた清水潔
2008年2月13日
宇都宮地裁(池本寿美子裁判長)は、菅家の再審請求を棄却[6]。菅家は東京高裁に即時抗告した。
2008年12月19日
東京高裁(田中康郎裁判長)がDNA型再鑑定を行うことを決定(逮捕から17年目)。
2009年2月
検察(東京高等検察庁)側と弁護側(顧問:佐藤博史他)のそれぞれが推薦した鑑定人2名が、DNA型再鑑定を開始。
2009年4月20日
再鑑定の結果について、弁護側推薦の鑑定人は「不一致部分が多いため同一人物のものではない」とし、検察側推薦の鑑定人は「一致部分が非常に少ないため、同一人物のものではありえないと言っても過言ではない」とする鑑定結果を提出。東京高裁の嘱託鑑定で「菅家のDNA型と女児の下着に付着した体液の型が一致しない」という結果となった[7][8]
高検はさらに「捜査中に誤って汗などが付着した可能性」についても検討するため、当時の捜査関係者との比較も行ったが、いずれも不一致となり、試料が正しく犯人のものであることも明らかとなった。これは真犯人を特定するための有力な証拠ともなるが、この時点で菅家の逮捕から17年以上が経過しており、既に公訴時効が成立。真犯人を逮捕・起訴できる機会は法的に失われた。
2009年5月25日
東京高裁の即時抗告審に鑑定書を提出していた筑波大学教授本田克也が鑑定書の改訂版を提出。

釈放

2009年6月1日
弁護団が刑の執行停止をしない検察を不当だとして宇都宮地裁に異議申し立て。
2009年6月4日
鑑定結果を受けて、東京高検が「新鑑定結果は再審開始の要件である『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』たり得る」とする意見書を提出し(事実上の再審開始決定)、併せて刑の執行を停止する手続きを取ったことにより、千葉刑務所に服役中の菅家が釈放される。刑事訴訟法では再審の開始前であっても検察官が刑の執行を停止できると定めており(第442条)、「有罪判決を導いた証拠が誤りであった以上、刑の執行を継続すべきではない」とする判断に基づくものだが、極めて異例のことであり、東京高検は「再審開始前に刑の執行を停止した前例はない」としている。記者会見で菅家は「検察と栃木県警に謝罪してほしい」と涙ながらに語った[9]
この事態を受け、栃木県警元幹部は「事件の捜査は妥当だった」「足利事件については思い出したくない」と語った[10]。また、当時陣頭指揮を執った元刑事部長である森下昭雄が「まだ無罪が確定したわけでは無く、自供も得ているし、(菅家が)犯人だと信じている」と報道陣に語ったところ、本人が運営するブログ「モリリンブログ」に批判のコメントが1000件以上も殺到し、そのブログが閉鎖される事態となった[11]
栃木県警も当初「暴行や自白の強要はなかったとこれまでの裁判で認定されている」とコメントし、森英介法務大臣(当時)も取調べの可視化を求める声に「捜査に支障をきたす」としていたが、東京高検に対して速やかに再審を開始し無罪判決を求めるよう指示した。
毎日新聞は、当事件の上告審の際に弁護団が求め続けていたDNA再鑑定を実施しなかったことの是非や、冤罪被害者に対する謝罪意思の有無、また当事件の公訴時効を裁判所が成立させた件についてどう思うかなどの質問を、判決に関わった当時の最高裁判事5名(亀山継夫北川弘治河合伸一梶谷玄福田博)と再審請求を認めなかった当時の宇都宮地裁判事3名の計8名に送り、回答を求めたが、判事達は「退官した現在は手元に資料がない」や「回答することは判決理由を後から変更するに等しい」などを理由に、全員が回答を拒否した。木谷明・法政大学法科大学院教授(元・東京高裁総括判事)は、判事達の回答拒否について「なぜまったく答えないのか不思議。答えられる限度で率直に答えるべきではないか」と疑問を投げかけている。
2009年6月23日
東京高裁(矢村宏裁判長)が再審開始を決定。
2009年10月5日
菅家が宇都宮地検を訪れ、検察側が初めて正式に謝罪。検事正幕田英雄が面会に応じて対面し、「無実の菅家さんを起訴して長年にわたって服役させ、苦痛を与えたことについて大変申し訳なく思います。検察を代表し、心から謝罪します」と口頭で直接述べた。これに対し、菅家は「これ以上、わたしと同じ苦しみが絶対あってはならない」と応じた[12][13]
釈放後の記者会見で菅家は、当時の取調べの状況に対し「刑事達の責めが酷かったです。『証拠は挙がってるんだ、お前がやったんだろ』とか『早く吐いて楽になれ』と言われました。私は始終無実を主張していますが受け付けて貰えず『お前がやったんだ』と同じ事の繰り返しでした」と述べており、殴る蹴るの暴行のみならず、頭髪を引きずり回されたり体ごと突き飛ばされる等の拷問に等しい暴行が横行した取調べの時間は15時間近くにも及んでいる。取り調べた刑事達については「私は刑事達を許す気になれません。それは検察や裁判官も同じです。全員実名を挙げて、私の前で土下座させてやりたいです」とも述べた。

再審

2009年10月21日
宇都宮地裁(佐藤正信裁判長)で再審公判が始まる[14]
2010年1月21日
再審第4回公判において取り調べ時の録音テープが再生される[15]
2010年1月22日
再審第5回公判において事件当時の担当検事・森川大司が証人として出廷。「現在もなお菅家氏が真犯人であると思うか」という弁護団からの質問には沈黙し、最後まで菅家に対する謝罪の言葉は一切なかった[16]
2月12日
再審第6回公判で検察側は「取り調べられた証拠により、無罪を言い渡すべきことは明らか」とし、論告で無罪を求めた。論告に際して、検察官は裁判長に発言の許可を求めた上で「17年余りの長期間にわたり服役を余儀なくさせて、取り返しのつかない事態を招いたことに検察官として誠に申し訳なく思っています」と謝罪した。菅家はこの謝罪について公判後の記者会見で「17年半を思えば、1分少々(の論告)では物足りない。謝罪はあったが、1分少々では腹の底から謝ったとは思えない」と述べている[17]
2010年3月24日
菅家は再審の判決公判を間近に控え、東京新聞の取材に応じ、「しばらくは冤罪で苦しむ人を支える活動を優先させたい」と述べ、自分のような悲劇が繰り返されぬよう「冤罪の語り部になりたい」と誓った[18]
2010年3月26日
再審の判決公判で、宇都宮地裁(佐藤正信裁判長)は菅家に対し、「当時のDNA鑑定に証拠能力はなく、自白も虚偽であり、菅家さんが犯人でないことは誰の目にも明らか」と判示して無罪を言い渡した[19]。判決の言い渡し後、裁判長は菅家に対し、「真実の声に十分に耳を傾けられず、17年半の長きにわたり自由を奪うことになりました。誠に申し訳なく思います」などと謝罪した。その後、宇都宮地検が上訴権放棄を宇都宮地裁に申し立てて受理されたため、無罪判決が即日確定した[20](一般には判決が言い渡されてから2週間以内であれば上訴が出来る)。

当事件の捜査・刑事・司法手続きにおける問題点

当事件においては、警察当局や裁判関係者に、理由や動機が不明な事象が確認される。

  • 最初の有力な目撃証言に基く捜査を早々に打ち切った。(当事件捜査において最大の不審点でもある。その実質の捜査実態も不明。)
  • 1997年からの再審請求やDNA型再鑑定を長期間拒否した。

いずれも、適切な捜査と対応をしていれば事件解決につながったと考えられるポイントである。1997年のDNA再鑑定の請求から2005年の公訴時効成立までの間に司法がDNA型再鑑定請求を認め、再審が行われていれば、その時点で菅家の無罪が確定し、事件の再捜査も可能だった点も指摘されている[21]

最初の有力な目撃証言に基づく捜査を打ち切った正当な理由についても警察当局は明らかにしていない。目撃証言について、菅家の自白と矛盾するということで事件とは無関係とする警察発表もあるが、通常の捜査であれば、反対に有力な目撃証言と矛盾するから菅家の自白は虚偽(強要された)と判断するところである。そもそも目撃証言に基づく捜査は早期に打ち切っているので、打ち切った正当な理由があれば、菅家の自白と矛盾しているとする旨をわざわざ警察発表でする必要もないはずのものである。

この事件の捜査に当時導入されたばかりのDNA型鑑定が採用されたのは、実際の事件でその実績を作りたかったためである。しかし、当時の鑑定の精度の低さゆえ時期尚早であり失敗であったことは、後年の再鑑定の結果明らかになっている。

日本テレビ清水潔記者の取材では、被害者の遺族が、事件当時被害者が着ていた赤いスカートやシャツなどの遺品の返還要求をしたところ、検察は「赤いスカートなどはお返しするがシャツだけはこのまま預かりたい」と国の施設で冷凍保存したいと遺族に返答した。シャツとは真犯人のDNAが付着していたものであるが、事件が時効となった今では捜査や鑑定などの使途も失われているものを、なぜ検察が保存するのか、ここでも行動の理由や動機となるものが不明である。真犯人を特定できる最大級の有力な証拠が、遺品の返還を望む遺族の感情にも反する形で氷付けにされている【清水潔「菅家さん冤罪足利事件『私は真犯人を知っている』」】。

シャツが返還され、真相を知りたい被害者遺族がシャツに残されたDNAを第三者機関に鑑定を依頼し鑑定されれば、真犯人のものと断定され、真犯人の存在が明確になることで、当事件への刑事訴訟法254条適用が可能になり時効も菅家逮捕時まで遡って停止し再捜査も可能になる。また、足利事件と同じ時期に同じ鑑定人がDNA鑑定をしそれを証拠に被告が死刑になった飯塚事件に対しての冤罪疑惑がより高まる。
2010年11月11日の国会で行われた「行政監視委員会」の場で当事件と北関東連続幼女殺人事件、検察がDNAサンプルが付着しているシャツを確保している事に関する答弁が行われたが、小川副大臣は被害者女児の着ていたシャツに付着していたDNAサンプルについて、「鑑定により真犯人と思われる者DNA型は出ております」と真犯人の存在を認める答弁をした。

菅家が自白した、手で首を絞めたことによる「扼死」と被害者の鼻の穴などから細かい泡状の液体(泡沫液)が漏れていたという「溺死」の鑑定所見と、被害者の死因の鑑定の点で矛盾が見られる。【らせんの真実-冤罪・足利事件(下野新聞)】より

菅家に対してのマークをしていた同じ時期により確実性の高い前科・前歴から数人の男の行動調査をしていた。しかし、理由不明のままその数人の男に対しての捜査を中止している。

類似事件

群馬県・栃木県の県境付近では1979年以降、幼女の誘拐事件が起きている。この事件を含め4人の幼女が死亡し、1人が失踪する事件の計5件の事件(北関東連続幼女誘拐殺人事件)が発生したが、いずれも未解決事件となっている[22]。当事件の真犯人による仕業と見る検証や分析がある。足利事件で真犯人が検挙されていれば、同時にそれ以前に起きた数件での犯人検挙、足利事件以後に起きる事件が未然に防げた可能性も指摘されている。【参考文献 清水潔「菅家さん冤罪足利事件『真犯人は幼女五人連続誘拐犯』」】

1996年の事件との関連

歩く恰好や風体など、事件発生時に目撃された男の姿が、上記の事件の一つで1996年に発生する「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」でパチンコ店の防犯ビデオに写った男の姿とよく似ていると、日本テレビの「バンキシャ」などの報道番組も指摘している[23]。「バンキシャ」では目撃者の女性も取材に応じている。ちなみに防犯ビデオに写った人物について「自分の人違いだ」というような報告も現在までない。このことも当事件の冤罪疑惑を深めた要素になっている。

被害者遺族側の反応と心理

被害者遺族は、当事件が時効を迎えている事について「ある事件の犯人が捕まって起訴された場合、共犯者は逃げていても、その間、時効は進まないとされているそうです(刑事訴訟法254条の2項)。私からすれば、真犯人の共犯者は警察ではないかと思います。だから、警察が菅家さんを無理して逮捕して以降、捜査が進まなかった期間の分、時効は伸びて然るべきではないでしょうか。」とその思いを語った。【参考文献 文藝春秋2010年12月号 清水潔 被害者遺族の手記『なぜ娘のシャツを返してくれないのか』】

2009年5月、被害者遺族である母親は検察から被害者女児自身のDNA鑑定の協力を求められた際、「菅家さんが無実であるなら、早く軌道修正をして欲しい。捜査が誤っていたならば、謝るべきです。捜査は誰が考えたっておかしいでしょう。ごめんなさいが言えなくてどうするの」と検事に訴えた。 その4日後、菅家は釈放された。【参考文献 「文藝春秋2010年12月号 清水潔 菅家さん冤罪足利事件『検察が隠蔽する「真犯人のDNA」』】

真犯人の存在・存在する真犯人

菅家冤罪の影で警察が発表をしていなかった「初期目撃証言の存在の事実」、「警察が前科前歴から割り出し重要参考人として指定していた数人の男たちの存在の事実」が近年の当事件に関連する報道や取材、調査により掘り起こされ明るみになっている。

初期目撃者が目撃した被害者の少女を連れ歩く不審な男、同一人物だと思しき「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」でパチンコ店の防犯ビデオに写った男がその真犯人として確定レベルで有力視されている。

防犯ビデオに写っていた男について、かつて足利事件を捜査してた捜査員は、犯罪の前科・前歴などからも捜査し容疑性の高い『Aランク』と呼ばれていて男数人について行動調査もしていたが、その中の一人に酷似していると語っている。【参考記事 らせんの真実-冤罪・足利事件- <終章><1>「消息」 捜査中止の参考人複数 酷似する「ビデオの男」下野新聞】(外部リンク参照)

刑事訴訟法254条適用の可能性について

254条の解釈と条件(真犯人の存在が明白である証拠〈シャツに残されたDNAの鑑定、目撃証言等〉、菅家が誤逮捕・誤起訴で収監されていた間、真犯人に対しての捜査が進まなかった等)では当事件に適用出来る可能性。適用した場合、当事件の時効経過は、1993年の菅家の無期懲役の判決から2005年の時効時期までの12年間が経過停止扱いとなる。2005年に遡りそこから時効経過を再開、その場合の時効は2017年。あるいは、1991年の起訴から2000年の最高裁判決までの約9年間が時効停止期間となり、その場合の時効は2014年。【らせんの真実-冤罪・足利事件 <5>「解明」 終わらない真相追及】(下野新聞)どの時期を時効の経過の停止、あるいは時効の経過の再開と定めるかによって異なる。

当事件を題材とした作品

参考文献

脚注

  1. ^ 宇都宮地裁平成5年7月7日判決/刑集54巻6号670頁・判例タイムズ820号177頁
  2. ^ <「足利事件」とDNA鑑定>佐藤博史弁護士に聞く(日経・朝日・読売によるニュースサイト「新聞案内人:新s あらたにす」2009年05月09日。全10頁)
  3. ^ 2008年1月6日 日本テレビ「ACTION」より
  4. ^ 「〈足利事件「支える会」代表が語る〉主婦の私がなぜ菅家さんの無実を信じ続けたのか」西巻糸子著(『婦人公論』2009年7月22日号)
  5. ^ 菅家の無罪確定後、亀山に対してテレビ局が取材したが、亀山は菅家に対し謝罪を拒否すると公言している。
  6. ^ 足利事件、再審決定 産経新聞 2009年6月23日閲覧
  7. ^ 「足利事件:再鑑定の結果「DNA不一致」…東京高裁に提出」毎日jp(毎日新聞社)2009年5月8日
  8. ^ >第2章スタートACTIONコラム(日本テレビ)2009年5月26日。その他、「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」など。
  9. ^ 「警察と検察に謝って欲しい」菅家さん、支援者への手紙で : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  10. ^ 【足利事件】「捜査は妥当だった」「思い出したくない」 栃木県警元幹部ら - MSN産経ニュース
  11. ^ 「足利事件」捜査の元県警幹部ブログが炎上 「謝罪しろ」コメント殺到 - ITmedia News
  12. ^ 「菅家さんに『苦痛与えた』と謝罪 検察、足利事件で初」[1]中日新聞、2009年10月5日 11時25分
  13. ^ 検事正が謝罪、足利事件 - YouTube(TBSNewsi, 2009年10月5日)
  14. ^ 足利事件再審:裁判長「菅家さん」 被告扱い封印 [2]毎日新聞、2009年10月21日閲覧
  15. ^ 足利事件:92年1月28日の地検聴取テープ(1)[3]毎日新聞、2010年1月22日閲覧
  16. ^ 足利再審 元検事語る(1)[4]産経新聞、2010年1月23日閲覧
  17. ^ 足利事件:検察側が無罪論告 菅家さんに謝罪(毎日新聞 2010年2月12日 11時29分 - 最終更新 2月12日 21時33分)
  18. ^ 無罪でも終わらない 菅家さん故郷で語る(『中日新聞』 2010年3月25日 07時07分)
  19. ^ 足利事件再審で菅家さんに無罪判決…宇都宮地裁読売新聞
  20. ^ 足利事件:菅家さん無罪 裁判長が謝罪 宇都宮地裁(毎日新聞 2010年3月26日 10時12分 - 最終更新 3月26日 13時52分)
  21. ^ <「足利事件」とDNA鑑定>佐藤博史弁護士に聞く(日経・朝日・読売によるニュースサイト「新聞案内人:新s あらたにす」2009年05月09日。全10頁)
  22. ^ 未解決事件地図
  23. ^ 足利事件 真犯人は ('09.6.7)(youtube)

関連項目

  • 未解決事件
  • DNA型鑑定
  • 冤罪
  • 福島章 - 一審の精神鑑定において菅家氏が代償性小児性愛者であると証言。だが、後年の当事件の冤罪判明で、菅家氏が犯人であることを前提にして行われたこの精神鑑定の結果も鑑定自体も結局は間違いである。 福島も「自分は菅家さんが犯人であることを前提に鑑定しただけだ」と発言している。【参考文献 菅家利和『冤罪 ある日、私は犯人にされた』】
  • 北関東連続幼女誘拐殺人事件 - 当事件も含める。
  • 飯塚事件 - 足利事件同様、当時のDNA鑑定を捜査材料に採用し、その結果を有力証拠として死刑が確定したうえ死刑執行。それ故、この事件も冤罪が疑われいる。【参考文献 清水潔「菅家さん冤罪足利事件『私は真犯人を知っている』」「菅家さん冤罪足利事件『真犯人は幼女五人連続誘拐犯』」】
  • 富山連続婦女暴行冤罪事件
  • みどり荘事件
  • 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 - この事件の直後にあったため、足利事件もセンセーショナルに報道された。
  • 冤罪事件及び冤罪と疑われている主な事件
  • 公訴時効-当事件が公訴時効を迎えた事件の為、関連項目として記述。なお、刑事訴訟法254条についてもふれている。
  • 殺人事件被害者遺族の会-公訴時効改正に向けて活動していた団体。当事件が公訴時効を迎えた事件の為、同じく関連項目として記述。
  • 八海事件 - 同様に冤罪事例が含まれる事件であり、冤罪被害者の冤罪が判明するのに十数年かかった事件のため、関連項目として記述。
  • 富山連続婦女暴行冤罪事件 - 真犯人が判明して逮捕された事で、無実の罪、誤認逮捕で起訴され服役していた男性の冤罪が判明した事件。

外部リンク

');