箱根関
狭義においては江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄郡箱根(現在の神奈川県箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指すが、広義における「箱根関」は江戸時代以前に箱根山山麓に置かれた関所及び江戸幕府が東海道と並行して走る脇往還に設置した関所も含んでいる。
概要
箱根に関所が設置された始期については定かではないが、律令期には既に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともにその路上に関所が設置されており、足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担った。承平の乱の際に平将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考え、承久の乱の際にも北条義時が御家人から出された箱根路・足柄路に置かれた関を固めて同地で官軍を食い止める策を斥けて兵を上洛させたと伝えられている(『吾妻鏡』承久3年5月19日条・『承久記』など)。室町幕府の鎌倉府も箱根に関所を設置して関銭の徴収を行った事が知られ、康暦2年(1380年)には、箱根の蘆川宿に関を3年間限定で設置して円覚寺の修繕に充てたと伝えられ、その後も応永13年(1406年)に箱根山中の水飲峠に水飲関が置かれたという。その後、戦国時代に後北条氏が箱根山の西側(伊豆国)に山中城を設置した際に関所の機能を吸収したという。
後北条氏滅亡後、江戸幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こし、そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置したのである。
箱根関所は一時期を除いては原則的には相模国足柄郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされ、通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。貞享3年(1886年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当を肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとして者は厳罰に処せられたのである。
箱根関所以外にも箱根裏街道には仙石原関、足柄路の流れを汲む矢倉沢往還には矢倉沢関所、熱海入湯道(熱海道)に根府川関所など5ヶ所の脇往還にも関所が設置された。江戸幕府の公式な箱根関所と5つの脇関所から江戸時代の箱根関が構成され、それ以外の経路を通過することは「関所破り」「関所抜け」として固く禁じられていた。
明治2年(1869年)に明治政府が諸国の関所を全廃したときに廃止された(ただし、幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた)。跡地は国の特別史跡とされ、昭和40年(1965年)になって箱根町立箱根関所資料館が開設された。
参考文献
- 『国史大辞典 11』(吉川弘文館、1990年)ISBN 4642005110
- 『日本史大事典 5』(平凡社、1993年)ISBN 4582131050
- 『角川日本地名大辞典 14』(角川書店、1984年)ISBN 4040011406
関連項目
外部リンク
- 箱根関所 (公式サイト)