コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

彗星 (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。カクタス (会話 | 投稿記録) による 2009年12月16日 (水) 10:57個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

艦上爆撃機 彗星

彗星一二型

彗星一二型

彗星(すいせい)は、太平洋戦争中期から使用された日本海軍艦上爆撃機。機体略号はD4Y1~4。アメリカ軍が本機に与えたコードネームは“Judy”。

概要

彗星三三型

単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は、艦上爆撃機としてはかなりの小型機で、零式艦上戦闘機とほぼ同サイズである。機体下部の爆弾倉と中翼配置、空力を重視した平滑な機体外形が採用されており、特に水冷式発動機独特の先細りの機首を持つ前~中期生産型は、空冷式がほとんどだった日本の軍用機の中では特徴的な外見をしている。

海軍の航空技術研究機関である空技廠で開発された本機は、量産性よりも性能を追求した研究機的な性格を持ち、高性能を実現するために当時の最新技術が多数盛り込まれた。それらは彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく、本機で採用された機構は後に開発される彩雲晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。しかし彗星の複雑な構造は日本の生産・運用事情に適しているとは言い難く、稼働率が低かった事もあり、後に空冷式発動機に換装されたタイプが主力となった。

当時の日本の技術力では手に余る機体と言え、そのポテンシャルを発揮する事がかなわなかった。そのため、評価が分かれる機体で仮定の話を含めて議論の的となる事も多いが、大戦中期から後期の主力機であったのは事実である。

開発は空技廠だが、生産は民間の愛知航空機で行われた(後に第一一航空廠で転換生産)。

開発経緯と名称

日本海軍はロンドン海軍軍縮条約により、戦艦巡洋艦と同様、英米海軍に対する航空母艦の保有数の不利を打開するため、艦上爆撃機の主任務を敵航空母艦に対する先制攻撃とし、それを可能とするために「敵艦上機より長大な攻撃半径」、「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」の二点を求めるようになった。

このため、昭和11年(1936年)にドイツから輸入したものの、性能的に要求に満たず不採用となったHe 118の資料を参考に、新機構を盛り込んだ機体を新たに開発することとなり、海軍航空技術廠(当時は航空廠。以下、空技廠と略)の山名正夫中佐らに“十三試艦上爆撃機”の開発が命じられた。要求性能は概ね以下のようなものであったとされる。

最高速度
280ノット(約519km/h)
巡航速度
230ノット(約426km/h)
航続力
爆撃正規800海里(約1,482km)
爆撃過荷1,200海里(約2,222km)
その他
過荷重装備として五十番(500kg)爆弾の装備を可能にすること

設計の特徴

彗星の操縦席

「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「敵戦闘機を振り切る高速性能」という2つの要求性能を満たすため、彗星は空気抵抗の軽減に重点を置き、新機軸を多く盛り込んだ設計が施され、試作機は要求以上の性能を発揮している。彗星で実用化された翼型や急降下制動板、動翼システムは後に開発された陸上爆撃機銀河、特殊攻撃機晴嵐、艦攻流星、艦偵彩雲等でも採用され、技術開発の面では高い成果を挙げたと言える。但し、新機構に起因する不具合と試作中に起きた空中分解事故の原因究明のため開発は遅延し、艦爆型の実戦配備が開発開始から5年後の昭和18年(1943年)にずれ込んだため、開発開始時に目標とされた「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切る」ほどの高速機ではなくなっていた。とはいえ、単発複座爆撃機としては世界的に見てもかなりの高速機で、九九式艦爆零式水偵月光などから乗り換えた搭乗員の多くはその高速性能を褒めている。しかしアツタ発動機の問題(後述)に代表されるように故障が多く整備が難しいため、前線では嫌われることも多かったと言われている。

胴体

前面投影面積の小さい水冷式発動機の発動機の直径に合わせて胴体を細く絞り込み、風防を可能な限り低くするために背負式落下傘の新規開発まで行われている。日本製艦上爆撃機としては初となる爆弾倉を採用するだけでなく、爆弾倉扉を胴体内側に畳み込む方式とすることで、爆装時のみならず爆撃時における空気抵抗の増加を防いだ。また、He 118を参考にラジエターと潤油冷却器を爆弾倉の前に配置することで機首下面を滑らかに成形している。

主翼

主翼の翼型は内翼側に層流翼翼型を採用し、外翼側は翼端失速しにくい通常の翼型にすることで空気抵抗を増やすことなく捻り下げと同様の翼端失速防止効果を得ている。空力的な面と爆弾倉との兼ね合いのため中翼配置とし、高速を得るために主翼面積は最小限に抑えられた。また折り畳み機構を省略したために空母のエレベーターに合わせて翼幅も11mに抑え、内部の隙間にセミ・インテグラル式の燃料タンクを内蔵して長大な航続力に必要な大量の燃料の搭載を可能にした。

空母からの短距離離陸を可能とするため、高揚力装置としての能力の高いセミ・ファウラー式フラップを採用した他、補助翼急降下制動板を補助フラップとしても使用可能なものとした。但し、フラップの幅が翼幅の60%に及んだことから補助翼の長さを十分にとることが出来ず、艦爆としては許容範囲内の効きを確保したが、後に夜戦として採用された際は効きの不足が指摘された。このように設計上様々な工夫を凝らしたものの、過荷重時の離陸滑走距離は長く、翔鶴型以上の大型高速空母でなければ多数機の同時運用は困難であった。

その他

十二試陸上攻撃機以来使われ始めた各部の電動化を全面的に採用し、脚の出入やフラップ・爆弾倉扉の開閉に使用した。電気駆動技術が未熟であったため艤装に不適切な部分があり、またモーター出力やバッテリー容量の不足もあって従来の油圧駆動式と比較し故障や不具合が多く信頼性に劣った。

アツタ発動機

靖国神社 遊就館に桜花熱田エンジンなどと共に展示されている、彗星一二型 尾翼番号は鷹-13 第五二三海軍航空隊の所属機となっている。

空気抵抗の面で有利と試算されたことから発動機は水冷式のアツタが搭載された。この発動機は当時同盟関係にあったドイツのダイムラー・ベンツから購入したDB 601Aをライセンス生産した物である。

精密なDB 601エンジンを国産化したアツタもやはり精密なエンジンと言え、工作技術が劣っていた日本では十分な精度を確保したまま大量生産することは困難であり、精度の低下は故障や生産効率低下の原因となった。また、日本製航空機は空冷式発動機を搭載した機体がほとんどで、前線の整備員にとって水冷式発動機に馴染みが薄く整備しづらい傾向が強かった。もっともアツタの整備について教育を受けた整備員は特に困難を覚えていないことから、講習や整備マニュアルの不足による整備員の知識不足が大きな要因と言えるが、戦況の悪化もあって有効な対策をとることが出来なかった。さらにアツタはオリジナルのDB 601Aが冷却液にエチレングリコールを使うのに対して、前線での補給を考えて普通の水を冷却液としている。そのままでは沸点が100℃のためオーバーヒートを起こしやすいため、加圧して沸点を最高125℃まで上げたが、循環器系への負荷で水漏れを生じやすい欠点もあって、アツタの稼働率は低くなりがちであった。

ただし、ニッケルの使用禁止で部品強度の落ちていた[1]川崎ハ40系に比べると、製造工程で強度低下を抑えていたアツタは全体的に状態は良かったと言われる(ハ40で多発したクランクシャフト折損のトラブルが無い)。また、沖縄戦での活躍で知られる芙蓉部隊では、各部隊が持てあました水冷式の彗星を引き取り、豊富な予備部品とアツタに熟知した整備兵を揃える(主に自隊で教育)ことで、稼働率は8割にまで達している。(アツタ自体も敗戦の月まで生産している)なお、陸軍もまた海軍とは別にDB601Aエンジンのライセンスを購入し、国産化したハ40 / ハ140発動機を三式戦飛燕に搭載している。統合名称(アツタ21 ~ 42とハ40・140両者)をハ60と称した。同一スペックの双方のエンジンの互換性については、双方が互いに連携なしに生産したため互換性が無く、飛燕がハ140の不調のためエンジンの変更を検討した際にアツタを搭載することができなかった(アツタはハ40/ハ140ほど生産量が多くなく、飛燕に回すだけの余裕がなかったともいわれている)。

開発と活躍

離陸準備中の二式艦偵一一型
  • 昭和15年(1940年)にDB 601Aエンジンを搭載した試作型が5機生産された。
  • 昭和17年(1942年)、試作3、4号機が爆弾倉にカメラを搭載した偵察機に改装され、実用試験のため空母蒼龍に配備された。うち1機は南方作戦中に墜落、残る1機はミッドウェー海戦に参加し、米機動艦隊発見という大きな戦果を挙げたが、帰投後に母艦ごと沈没した。同年8月15日、試作5号機が飛行試験中に空中分解し、艦爆としては機体の強度が不足しているため改修が必要と判断されたが[2]、通常の飛行には差し支えないことから、高速偵察機を必要としていた海軍は増設燃料タンクやカメラを搭載した機体を二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)として採用した。二式艦上偵察機の運用は良好で、搭乗員の評判も良く、後継の艦上偵察機彩雲と共に大戦後半における日本海軍の眼として働いた。二式艦偵は、最高速度こそ彩雲に劣るものの、艦爆が母体であるため、高い技量を持つ搭乗員が操縦していれば、急機動によって敵の攻撃を逸らせたり、場合によっては機首機銃で空戦に持ち込むことも可能であった。
  • 昭和18年6月から、機体強度を向上させた艦上爆撃機型も彗星一一型(D4Y1)として量産に移り、昭和18年後半のソロモン戦から実戦投入された。マリアナ沖海戦時には母艦航空隊、基地航空隊とも艦爆隊の主力を占める様になったが、制空権が米軍の手に握られていた上に、彗星自体の稼働率も低かったため目立った戦果はあげられなかった。しかしその後熱田21型になれ、彗星11型のエンジン不調は、なんとか治まっていた。
  • 昭和18年5月に出力と整備性を向上させたアツタ三二型に換装した性能向上型の彗星一二型(D4Y2)試作一号機が完成した。速度自体は向上したもののただでさえ苦労して熱田21型エンジンの不調がようやくおさまったというところに(それでも完全に不調がおさまったというわけでもなかった。)彗星12型が登場したため、再びエンジン不調がぶり返してしまった。そこで一二型試作機完成から約半年後の昭和18年12月から空冷式発動機金星六二型に換装した彗星三三型(D4Y3)の開発が始まり、完成後は一二型と平行生産された。
  • 昭和19年(1944年)10月24日、レイテ沖海戦にて基地航空隊の彗星1機が軽空母プリンストンに命中弾を与え、艦載機・弾薬庫の誘爆により火災鎮火の見込みが無くなったプリンストンは味方駆逐艦により雷撃処分された。なおプリンストンの救援作業に当たっていた軽巡バーミンガムも誘爆の巻き添えにより上層構造物が破損、大破している。
  • 戦闘機に準じた機体強度と高速性能を持つことから、旧式化した夜間戦闘機月光の後継機として一二戊型や三三戊型といった20mm斜銃を追加装備した夜間戦闘機型が三〇二空、三三二空、三五二空等の本土防空部隊に配備され、主にB-29の夜間迎撃に投入された。
    沖縄戦では、美濃部正少佐率いる芙蓉部隊所属の一二戊型が一二型と共に米軍に占領された嘉手納飛行場や沖合の艦隊に対して夜間銃爆撃を粘り強く続けたことで知られる。1945年6月10日には、芙蓉部隊所属の中川義正上飛曹-川添普中尉機(一二戊型)がP-61と思われる敵夜戦の撃墜という希有な戦果も報じている。
  • 最終量産型は昭和20年(1945年)から投入された三三型を改修した四三型(D4Y4)で、操縦席に防弾設備を増設する一方で後部座席と機銃類を廃し、爆弾倉に800kg爆弾を装備可能とした特攻仕様機であった。第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将が終戦当日に沖縄沖の米艦隊に特攻出撃した際の搭乗機であったことでも知られる。(このときは、操縦席に中津留大尉、後部に宇垣中将で、複座型の43型であった)
  • 昭和47年(1972年)にカロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見された機体が復元され、現在は靖国神社遊就館に展示されている。

派生型

飛行中の彗星三三型
十三試艦上爆撃機(D4Y1)
DB 601Aエンジンを搭載した試作型。生産数5機。
二式艦上偵察機一一型(D4Y1-C)
偵察用カメラと爆弾倉内蔵式増加燃料タンクを追加した艦上偵察機型。
二式艦上偵察機一二型(D4Y2-C/R)
発動機をアツタ三二型に換装した艦上偵察機型。後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2-Ca/Ra)も生産された(文献では主にD4Y2-Rが使われているが、陸上基地からの運用が多かった事からであり、D4Y2-Cも誤りではない)。
彗星一一型(D4Y1)
艦上爆撃機型としては最初の量産型。
彗星一二型(D4Y2)
発動機をアツタ三二型に換装した艦上爆撃機型。二式艦偵一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した一二甲型(D4Y2a)も生産された。
彗星一二戊型(D4Y2-S)
一二型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。三〇二空を始めとする本土防空部隊と芙蓉部隊に配備。
彗星二二型(D4Y2改)
航空戦艦に改装された伊勢型戦艦搭載用に機体を強化してカタパルト射出可能とした機体。一一型または一二型から改造(一一型は熱田三二型への換装を含む)。
彗星三三型(D4Y3)
発動機を金星六二型(離昇1,560馬力)に換装した陸上爆撃機型。試作機を除き制動フック無し。一二型同様、後方旋回機銃を13mm機銃に強化した三三甲型(D4Y3a)も生産された。
彗星三三戊型(D4Y3-S)
三三型の偵察員席後方に20mm斜銃を追加した夜間戦闘機型。大戦末期、一二戊型の代替として三〇二空などに少数機が配備。
彗星四三型(D4Y4)
後席廃止(一部は複座型に戻されている)、防弾装備強化、爆弾倉扉廃止などの改修を施した簡易型。800kg爆弾1発の搭載が可能。一般的には、“特攻機型”として認知されることが多い。増速ロケットの追加も検討され、実際に胴体下部にロケット装着用の「切り欠き」が作られたが実際には未装備(ロケットを装備すると空気力学的な問題が生じ、性能が低下する恐れがあるため)。
彗星五四型(D4Y5)
発動機を一二型(離昇1,825馬力)に換装した型。計画のみ。

諸元

制式名称 彗星一一型 彗星一二型 彗星三三型
機体略号 D4Y1 D4Y2 D4Y3
全幅 11.50m 同左 同左
全長 10.22m 同左 同左 注1
全高 3.175m 同左 3.069m
自重 2,510kg 2,635kg 2,501kg
過荷重重量 3,960kg 4,353kg 4,657kg
発動機 アツタ二一型(離昇1,200馬力) アツタ三二型(離昇1,400馬力) 金星六二型(離昇1,560馬力)
最高速度 546.3km/h(高度4,750m) 579.7km/h(高度5,250m) 574.1km/h(高度6,050m)
上昇力 高度5,000mまで9分28秒 高度5,000mまで7分14秒 高度6,000mまで9分18秒
航続距離 1,783km(正規)~2,196km(過荷) 1,517km(正規)~2,389km(過荷) 1,519km(正規)~2,911km(過荷)
武装 機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各600発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.7mm旋回機銃1挺(97発弾倉×6)注2
機首7.7mm固定機銃2挺(携行弾数各400発)
後上方7.92mm旋回機銃1挺(75発弾倉×3)
爆装 胴体250kgまたは500kg爆弾1発 胴体250kgまたは500kg爆弾1発
翼下30~60kg爆弾2発
胴体250kgまたは500kg爆弾1発 注3
翼下250kg爆弾2発 注4
乗員 2名 同左 同左
  • 注1:愛知の資料では10.24m。
  • 注2:一二型の後期生産型は、三三型と同じく7.92mm旋回機銃を搭載。
  • 注3:一二戌型は後上方旋回機銃を廃止し、20mm斜銃(携行弾数250発)を装備(三三戊型も同様)。
  • 注4:翼下に250kg爆弾2発装備の場合は胴体も250kg爆弾1発。
  • 注5:一二甲と三三甲型は、いずれも、後上方旋回機銃を13mm機銃に換装。

脚注

  1. ^ 渡辺洋二『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』(文春文庫、2006年) ISBN 4-16-724914-6 p156~p157。
  2. ^ 山名正夫「海軍航空技術の粋を集めた 艦爆「彗星」」その2(鳥養鶴雄 監修『知られざる軍用機開発』上巻(酣燈社、1999年) ISBN 4-87357-049-2 p40~p41、初出:酣燈社『航空情報』1955年7月号)

参考文献

  • 雑誌「丸」編集部 編『軍用機メカ・シリーズ11 彗星/九九艦爆』
(潮書房保存版、1994年) ISBN 4-7698-0681-7
(潮書房ハンディ判、2000年) ISBN 4-7698-0920-4
  • 世界の傑作機 No.69 海軍艦上爆撃機「彗星」』(文林堂、1998年) ISBN 4-89319-066-0

関係項目


');