小堀杏奴
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小堀 杏奴(こぼり あんぬ、1909年5月27日 - 1998年4月2日)は、東京都出身の随筆家。
森鴎外と後妻・志げの次女である。
鴎外研究への貢献
杏奴は、鴎外の子供4人の中で、最初に父の回想記を著した。『明星』の後継誌『冬柏』(とうはく。与謝野寛・晶子が主宰)に「晩年の父」と「思出」を相次いで発表し、1936年に「母から聞いた話」と併せて『晩年の父』を刊行した。同書で、1888年に4年間の留学を終えた鴎外を追うようにドイツ人女性が来日していたことをはじめて紹介した(1890年に鴎外の小説『舞姫』が発表されたときから世間に知られていなかった)。また、日露戦争出征中に鴎外が激戦地の南山を舞台につくった『扣鈕』(ぼたん)の一節「こがね髪ゆらぎし少女」を、そのドイツ人女性ではないかとし、その女性と鴎外が長い間文通をしていたこと、死期を悟った鴎外が妻に女性の写真と手紙の束とを焼かせたこと等を公表した。
もっとも、鴎外の妹小金井喜美子は、エッセイで杏奴の行為(秘密の暴露)をたしなめながら、鴎外を追ってきたドイツ人女性を「路傍の花」と表現した[1]。のちに杏奴は、エッセイで「亡父が、独逸留学生時代の恋人を、生涯、どうしても忘れ去ることの出来ないほど、深く、愛していたという事実に心付いたのは、私が二十歳を過ぎた頃であった」と書いた[2]。いずれにせよ、杏奴により、鴎外を追ってきたドイツ人女性の存在が明らかにされたことは、鴎外研究の大きな転機になった。かつて『森鴎外』(1932年)を刊行した木下杢太郎は、次のように記した。原稿を執筆していたとき「先生の創作、随筆を読んだあとに、いつも諦めの心に似る寂しい感情の湧起すると云ふことを注意しました。その何故であるかは当時深く追究して見ませんでしたが、其後森家の方々が先生に関して書かれるものを見るにつけ、少しずつ其所因が理解せられるやうに思はれたのです。」[3]
なお、晩年の杏奴は、鴎外を主人公にしたテレビドラマ「獅子の如く」(TBS、1978年)が放送されたこともあり、全国各地で講演などをした。
血縁者
- 森林太郎 - 父
- 森志け - 母
- 森於菟 - 異母兄
- 森茉莉 - 姉
- 森類 - 弟
- 小堀四郎(1902年? - 1998年8月9日) - 夫、画家
- 小堀(横光)桃子 - 長女、横光佑典(作家横光利一二男)の妻
- 小堀鴎一郎 - 長男、国立国際医療センター名誉院長
主な著作
- 『晩年の父』岩波書店、1936年(随筆一編を追加して岩波文庫、1981年)。
- 『回想』 東峰書房、1942年。
- 『朽葉色のショール』 春秋社、1971年(講談社文芸文庫、2003年 ISBN 4-06-198319-9)。
- 『冬枯れの美』 女子パウロ会、1979年。
- 『不遇の人 鴎外 日本語のモラルと美』 求龍堂、1982年。
- 小堀編 『鴎外 妻への手紙』ちくま文庫 1996年 初版岩波新書旧赤版