パトリス・ルムンバ
パトリス・エメリィ・ルムンバ Patrice Emery Lumumba (1925年7月2日 - 1961年1月17~18日)は、コンゴ民主共和国の政治家で独立期の指導者、初代首相。
プロフィール
生い立ち
1925年7月2日に、ベルギー領コンゴのカサイ州北部オナリア村の農家に生まれる。プロテスタント系のウエンボ・ニヤマ学校で教育を受ける。学校を卒業後、郷里を出てキサンガニ(旧スタンリービル)の郵便局事務員として働いた。
政界進出
1957年、全アフリカ人民会議に参加。1958年10月10日、コンゴ国民運動(コンゴ民族運動、MNC=Mouvement National de Congo)を創設する。1959年4月コンゴ国民運動は、最初の全国大会をカナンガ(旧ルルワブール)で開催し、コンゴの早期独立を要求した。最初、コンゴ国民運動の地盤はキサンガニに限定されていたが、次第にカサイ、キブー、赤道諸州に勢力を拡大していった。ルムンバは、コンゴ国民運動の指導者として、部族間の紛争を防止し、コンゴ国民の一致団結とアフリカ諸国の独立運動に尽力していった。1958年には、ガーナのアクラで開催されたアフリカ諸国民会議にコンゴ国民運動を代表して参加した。
初代首相
1960年にコンゴで総選挙が実施され、下院議員137名、上院議員84名が選出されることになった。コンゴ国民運動は、総選挙で勝利を収め、下院において40議席を獲得した。
ルムンバは、1960年6月23日に初代首相に就任し、同日にジョゼフ・カサヴブが大統領に就任した。ルムンバ首相は、親ベルギー系のアバコ党(下部コンゴ国民同盟)およびコナカット党と連立内閣を組閣した。外相はアバコ党のボンボコ、経済相にコナカット党のヤバがそれぞれ就任した。こうして1960年6月30日に正式にコンゴ民主共和国は独立した。
しかし、コンゴに駐留していたベルギー軍の挑発行為に対して、ルムンバがベルギー軍の撤退を要求した事から事態は急変した。7月8日、ベルギー軍は首相官邸を襲撃、7月9日、キンシャサ国際空港を占領。さらにベルギー本国から空挺部隊が増援された。このような事態を受けて、ルムンバ首相は7月10日、ベルギーとの国交断絶を表明し、同時に国際連合とアフリカ諸国に対して援助を要請した。しかし、8月2日、かねてからベルギーの支援を受けていたカタンガ州臨時大統領モイーズ・チョンベは、国連軍のカタンガ州への駐留を拒否した。カタンガ州は世界の銅の生産量の約70パーセントを産出する戦略上重要な地域であり、銅輸出による経済開発を念頭においていた独立コンゴにとってカタンガの分離独立は容認せざる事態であった。
殺害
ルムンバとカサヴブ大統領の対立も激化し、9月6日ルムンバは臨時閣議を開き、カサヴブ大統領の解任決議を採択した。しかし、カサヴブは逆にルムンバを更迭し、後任の首相にイレオを任命する事態になった。9月8日、大統領解任決議案が上下両院で採択され、下院では成立を見たが、上院では成立せずルムンバは敗れた。
12月1日夜に、国軍参謀長だったジョゼフ・モブツ将軍(後のモブツ・セセ・セコ大統領)はカサヴブ側に立ち、クーデターを敢行。カザヴブ大統領の命令でルムンバを逮捕した。1961年1月17日から1月18日にかけて、ルムンバと2人の同志は、キサンガニ空港で飛行機から引きずりだされ、白人の傭兵とチョンベの兵によって殺害された。