ザ・ゴールデン・カップス
ザ・ゴールデン・カップス | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル | グループ・サウンズ |
活動期間 | 1966年 - 1971年、2004年 - |
レーベル | 東芝音楽工業 |
メンバー |
デイヴ平尾(ボーカル) エディ藩(ギター、ボーカル) ルイズルイス加部(ベース、ギター) マモル・マヌー(ドラムス、ボーカル) ミッキー吉野(キーボード) |
旧メンバー |
ケネス伊東(ギター、ボーカル) 林恵文(ベース) アイ高野(ドラムス) 柳ジョージ(ベース、ボーカル) ジョン山崎(キーボード) |
ザ・ゴールデン・カップスは、1966年12月、神奈川県横浜市でデイヴ平尾を中心に結成されたグループ・サウンズ(GS)のバンド。
バンド名は、結成当時このバンドが演奏していた本牧のダンスホール「ゴールデン・カップ」から命名したと言われる。結成以降、1971年の解散に至るまで、「長い髪の少女」「愛する君に」などの楽曲をヒットさせたが、ステージの上においてはこれらの曲を演奏する事を好まず、もっぱら当時のアメリカ・イギリスで流行していたロック・ポピュラーの曲を演奏した。また、一貫して演奏力にも定評があり、主としてハーフが結成したというルックス(実際にはデイヴ・マモル・ミッキーらは生粋の日本人、またエディは華人だったのだが…)と相まって、演奏力とは無縁な、歌謡GSや企画もののアイドル系GSの多かった中、異色の本格派GSとして、ディープなファンも多かった。
2004年、記録映画を記念して再結成、サポートメンバー2名(ドラムス:樋口晶之、ベース:スティーブ・フォックス)を加えて、NHKテレビの歌番組への出演、ライヴハウスでの演奏などを行った。(この時のメンバーは、右にあるインフォボックスの上の5人。)現在も時々集まってライブ活動を行う。
メンバー
結成時のメンバーは以下のとおり。脱退後、解散後の目立った活動は、()内に。
- デイヴ平尾(1945年11月17日 - )- 本名:平尾時宗。リーダー、ボーカル。
- エディ藩(1947年6月22日 - )- 本名:潘廣源(人名事典では潘の字で記載)。リードギター、ボーカル。
- ルイズルイス加部(1948年11月5日 - )- 本名:加部正義。ベースギター(後に、チャーなどと、ピンククラウド結成)。
- ケネス伊東(1946年1月1日 - 1997年)- アメリカ合衆国・ハワイ州オアフ島出身の日系アメリカ人二世。本名:ケネス・イトウ(Kenneth Ito)。サイドギター、ボーカル。
- マモル・マヌー(1949年6月3日 - )- 本名:三枝守。ドラムスだったが、再結成後はボーカルに専念。
その後、以下のメンバーが途中時期に在籍した。
- ミッキー吉野(1951年12月3日 - )- 本名:吉野光義。キーボード(後にゴダイゴのリーダーとして、大成功)。
- 林恵文(1951年5月11日 - )- ベースギター
- アイ高野(1951年1月12日 - 2006年4月1日)- 本名:高野元成。ドラムス(カップス以前は「ザ・カーナビーツ」、以後は竹田和夫率いる「クリエイション」のボーカルとして、それぞれヒットあり)。
- 柳ジョージ(1948年1月30日 - )- 本名:柳譲治。ベースギター、ボーカル(ソロでヒットを出し成功)。
- ジョン山崎 - (1950年-)本名不詳。キーボード。なぜか彼だけ公式サイトからプロフィールが削除されている。現在ホノルルで牧師として活動中。(アロハ・バイブル・チャーチ)
沿革
ザ・ゴールデン・カップスは、デビュー曲「いとしのジザベル」発表前には、横浜・本牧の「ゴールデン・カップ」の専属バンド「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」として活動していた。
1965年頃、既に横浜ではいくつものアマチュアバンドが結成されており、ダンスパーティーやイベントなどに活動の場を求めていた。1945年生まれの平尾時宗もそうしたアマチュアのひとりで、高校卒業後は実家のクリーニング店で働きながら、「スフィンクス」というバンドでヴォーカルを担当していた。ともにアマチュアながら「スフィンクス」と潘(藩)広源がリードギターを担当していた「ファナティックス」は当時の横浜を代表するバンドであり東京からも本物の音楽関係者が足を運んで聞いていた。
1966年7月、平尾は独りアメリカ旅行に出発。ときにビートルズ東京公演の数日後の事である。表向きは「自分の将来を考えたい」と殊勝な事を言って出発した平尾だったが、実際には昼間はレコード店巡り、夜はライブを見に行くという毎日だったようだ。またこの期間中に、アメリカ国内で潘と再会した。中華街の名店「鴻昌」のせがれという裕福な家庭に育った藩は中学時代にギターを覚え、ついには日本最高のギタリストとよばれるまでになる。
同年11月、平尾は帰国。高校時代の友人に誘われ、4月にオープンした「ゴールデン・カップ」を訪れたのだが、その際オーナーの上西四郎から「この店の専属バンドを探している」と誘われたのである。
こうしてスフィンクスはゴールデン・カップのステージに立ったのだが、既に本場のライブを聞いて帰ってきた平尾の耳には、バックの演奏が物足りなく感じた事も事実だった。そこで平尾は「人前に立つなら腕利きのメンバーを集めよう」と考え、アメリカで出会った潘広源を誘い、藩は加部正義、ケネス伊東らを誘った。ドラムスには当初、加部らと面識のあったジョニー野村を据えることが予定されていたが、野村は既にプロモーターを志して大学に進学していたため(ジョニー野村はその後、ゴダイゴのマネージャとなる)、平尾の渡米中にスフィンクスのボーカルを担当していた三枝守がドラムスを担当する事になった。
こうしてグループ・アンド・アイとしての活動がスタートした。
「ゴールデン・カップ」には、当時の暴走族である「ナポレオン党」のメンバーも客として来店していたが、ナポレオン党を取材していたTBSの担当者の仲介で、グループ・アンド・アイはテレビ番組「ヤング720」に出演する事になる。これにより彼らはその名を知られる存在となり、プロデビューの話も舞い込むようになった。
彼らを全員ハーフという触れ込みで売り出す事を考えたのは、当時の東芝音楽工業(現:EMIミュージック・ジャパン)の担当者だとされる。
1968年7月8日、伊東がビザの関係で離れ、吉野が加入。10月21日、伊東が復帰。
1969年4月25日、藩と伊東がエディ藩グループ結成のため脱退、林が加入し、加部がギターに転向。また12月31日付けで加部と林も脱退し、加入前の山崎とルームを結成、マモルも脱退しソロ歌手となる。
1970年1月1日付けでエディ藩グループと合併、藩と伊東が復帰、同グループにいた高野も加入。しかし伊東は8月31日に引退、翌日に柳が加入。
1971年7月3日、山崎が加入。10月30日、吉野がゴダイゴの前身となるサンライズ結成のため脱退。12月、ゴールデン・カップスは最後の仕事として沖縄のディスコで演奏したが、最終日の終演直前、会場内で火災が発生。柳のベース以外はすべて、そのときに焼失したといわれる。
1972年1月2日をもって正式に解散。
1997年、伊東がハワイで死去(月日は不明)。2006年には高野も死去。
ディスコグラフィー
シングル
- いとしのジザベル (1967.06.15)
- 銀色のグラス (1967.11.15)
- 長い髪の少女 (1968.04.01)
- 愛する君に (1968.09.01)
- 過ぎ去りし恋 (1968.12.05)
- 本牧ブルース (1969.11.10)
- ルシール (1969.05.01)
- 蝶は飛ばない (1969.07.10)
- にがい涙 (1970.05.05)
- 人生は気まぐれ (1971.11.5)
アルバム
- THE GOLDEN CUPS ALBUM (1968.03.10)
- THE GOLDEN CUPS ALBUM VOL.2 (1968.09.10)
- ブルース・メッセージ (1969.03.10)
- スーパー・ライヴ・セッション (1969.08.01)
- ザ・ゴールデン・カップス・リサイタル (1969.10.10)
- ザ・フィフス・ジェネレーション (1971.01.10)
- ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス (1971.10.05)