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真珠湾攻撃陰謀説

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真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は日本時間の1941年12月8日、大日本帝国海軍真珠湾攻撃アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本でも唱えられていた。

背景と出版物

日本海軍による真珠湾(パールハーバー)攻撃はアメリカにとっても大事件であり、日本人が想像する以上の屈辱的事件であった。それは二度の原爆投下を経てこの太平洋戦争に完全勝利しても拭い切れないものだった。ヒトカップ湾からハワイのパールハーバーまで、31隻からなる艦隊で北太平洋を横断する大長征を行い、しかも戦艦駆逐艦が多数駐留しているところへ、奇襲に成功したことは、非常に稀なケースである。それだけに様々な憶測が生まれた。なかでも「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」とする真珠湾攻撃陰謀説が開戦後60年以上たっても、繰り返し論議される。しかもそれを日本とアメリカ双方で信じる多くの人々がおり、論争が起こっている。

歴史家のチャールズ・ピアードは戦争責任はルーズベルトにあり、『ルーズベルトが引き起こした戦争1941』を発表し、日本でも大鷹正次郎の『第二次大戦責任論』がある。ロバート・セオボルド『真珠湾の審判』、ジェームス・バーンズ『ルーズベルト』、ロベルタ・ウォールステッター『パール・ハーバー』が出版された。ジョン・トーランド『真珠湾攻撃』が大きな話題を呼び、ロバート・B・スティネット[1]『真珠湾の真実』が最近の書である。歴史家が真珠湾に関するもので比較的信頼されるものはゴードン・プランゲ『真珠湾は眠っていたか』である。20世紀末の「機密文書情報公開法」で事前察知を記した公式文書が色々明らかになっているが、これには諸説あり、評価が定まっていない。

ABCD包囲網

ABCD包囲網ラインとはA(アメリカ)、B(イギリス)、C(中国)、D(オランダ)による軍事的、経済的封鎖の包囲陣が作られ、そのためにやむを得ず戦争を起こさせられたという事件だが、ルーズベルトの陰謀説もこれの一部である。

  • 秦郁彦(『検証・真珠湾の真実』の編者)はABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。
  • 須藤眞志は大統領が承認していないので、米政府を縛る拘束力もなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。
  • ジョージ・モーゲンスターン[2]は両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。

米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油ゴムスズ屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國国策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかった。(検証・真珠湾の謎と真実)

チャーチルとの密約はあったか

1941年8月9日からルーズベルトとウィンストン・チャーチルニューファンドランド島の沖合のアルジェンチアで会談を行った。チャーチルは何としてもアメリカをヨーロッパ戦争に参加させナチス・ドイツとの戦争に勝利しなければならなかったのである。アメリカは中立法(孤立主義モンロー主義)があり、戦争に巻き込まれないことを信条とし、それをルーズベルトは公約にしていたのだった。

当時アメリカはイギリスと同盟は組んでいなかった。アメリカの懸念は日本が南進したときにアメリカはどうすべきかと言うことだった。ルーズベルトは日本に警告文[3]を発したが、これは陰謀説を唱える者の証拠とされる。

が、8月の時点では山本五十六考案の真珠湾攻撃のプランが出来ており、警告文ではアメリカ側のほうでは、そのようなことを予測しているように見えず、南方地域への日本の攻撃を想定していたものと考えられる。

ハル・ノートは最後通牒か

ハル・ノートは日本の教育では日本が50年以上かけて築き上げたアジアの占領地及び同盟関係もをすべて放棄せよ、と言う内容だが、このときにはもう南雲忠一中将率いる機動部隊択捉島ヒトカップ湾を出航、ハワイに向けて出撃していた。ハル・ノートをみた東郷外相は「目もくらむような衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)と回顧しており、日本にとっては到底受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表したが、実際はもう出撃していてたしかに内容は挑発的だったがこれが戦争原因とはいえない。しかしハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。

1941年11月26日、ホワイトハウスに朝九時に財務長官のモーゲンソーが尋ねているが、大統領はハル国務長官との長い電話だった。状況からハルが暫定協定案の放棄の許可を求めてきたものと思われるが、証拠はない。

ハルノートが戦争を誘発するかもしれないとする認識はハルにもルーズベルトにもあったと思われる。ルーズベルトは「先に日本に一発撃たせる方法はないか」と語ったそうである。この事からルーズベルトは日本と戦争をしたがっていることはまず明白であり、何らかの策を探っていたことが分かる。

キンメルとショートの(スケープゲート)名誉回復問題

1995年に米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルとハワイ駐留の陸軍司令長官ウォルター・ショートの遺族らが、名誉を回復せよという訴えを起こした。

1995年に国防次官のドーン委員長とする真珠湾調査委員会が50年ぶりに出来た。1999年に4月に共和党のウィリアム上院議員らによって二人の名誉回復を大統領に求める共同決議案が提出された。この問題はニューヨークタイムズ[4]でも取り上げられた。ただし、内容をみると「ワシントンD.C.の軍の司令官たちは日本がすぐにでも攻撃してくるかもしれないと示唆する諜報当局の報告を知っていた。 」と言う表現であり、場所も時間も特定されておらず、事前察知とは言いにくい。

内容は「その票決(2890億ドルの軍事支出議案への改正に関する52~47)は、1941年12月7日に攻撃されたハワイへの日本の衝撃的な忌々しい攻撃を、予想することができなかったことで非難された米軍の指揮官海軍者ハズバンド・E・キンメル大尉と、ウォルター・C・ショート中尉を赦免することを目的とした。上院は、今日、1941年に真珠湾の爆破の結果として、職務怠慢で訴えられた2人の上級将校の名前を取り除くために、投票を行った。投票は、第二次大戦後、上院からベテランが退職して数が少なくなる中、感情的な議論の末行われた。」

議論の末、僅差で2回とも議決議案を通過したが、ビル・クリントンジョージ・W・ブッシュとも署名をせず、ロス議員も落選してしまったが、議会の公式見解では二人の名誉回復は成ったということになっている。

アメリカは暗号を解読していたか

  • スティネット論 アメリカの暗号解読班は津暗号を知り尽くしていた。それは、アメリカが初めてこの暗号を破ったのは、1920年代のことだったからである。1941年頃日本はアメリカの暗号を出し抜こうと、この暗号に三ヶ月毎に細かい変更を加えていた。Jシリーズ暗号の三つの各々が1941年に使用されたが、一日も経たないうちに破られてしまった。アメリカの解読班の裏をかく事はできなかったのであるJ シリーズは元々皮肉を込めて暗号関係者の専門語で「直接法」と言われている方法で解読された。直接的と言われる所以は、日本外務省の急使の手荷物を盗むなどの手段が用いられたからである。たとえば福田急使がサンフランシスコの税関を通過しようとするとき、米海軍が税関吏を装って暗号書の入っている箱を開け暗号書の内容を急いで写真に撮って返し、通関を許可したりもしくは公然と買うこともあった[5]『真珠湾の真実-欺瞞の日』
  • 秦郁彦 スティネットの『真珠湾の真実』に対して秦郁彦は反論を展開している。序章と後方の記述が違い過ぎるからである。原書ページで5ページと324ページでまるで正反対であり、暗号は解読されていないと断言している。秦郁彦は1999年3月メリーランドカレッジパーク国立公文書館でJN-25bの解読作業に関する文書OP-20-Gを発見、1941年12月1日の時点ではJN-25bのほんのわずかな暗号を、解明できずただの一通も解読できなかった、という事実であり、JN-25bが解読されていたという主張を論破するものである、と主張している(『検証・真珠湾の謎と真実』)
  • スティネット 10月になると太平洋艦隊通信解析主任ホーマー・キスナー米軍暗号解読者が、“親鶏”(第三艦隊)、“子鶏”(侵攻部隊)の正体を知ることができた、と記している[6]。日本の艦艇は基本的な通信機密保全を守ることを怠ったため、傍受局Hの暗号解読班は、第三艦隊の編成を知ることができた。米軍暗号解読者によると、第一艦隊の六隻のどの空母も連絡を取ることはなく、東南アジアではなく、常に太平洋を横断して当方ハワイに向かう行動に関連しているように思えた[7]。9月が終わり日本は中国から主要な艦船と航空部隊の大半を引き上げさせた。マッカラムの覚書に「戦争を企図している国は武力行為に出る前に、船舶が拿捕されたり、破壊されたりする地域から、商船と派遣中の海軍部隊を引き上げさせると思われる」[8]とある。ワシントンは戦争の序曲と理解した。米情報部は商船を中心に無線を傍受していたのが分かる。日本商船にはJAPANからJで始まる記号を割り当てていた。龍田丸は「JFYC」であった。軍艦と海軍基地は仮名文字二字と数字一字だった。空母赤城は「8ユナ」だった。『真珠湾の真実-欺瞞の日』
  • 秦郁彦は「商船」のことについては完全に”スルー”している。

無線封止は守られていたか

  • スティネット ハワイ作戦に向かった機動部隊が、とくに司令長官である南雲忠一が60回も無線封止を破ったとスティネットは書いている。真珠湾攻撃に関与した日本海軍将校は第一、第五航空戦隊空母は完全な無線封じを行っていたと主張し、米側がキャッチした電報空母赤城やその他の軍艦になりすまして発信した偽電を傍受したものであるという。キンメル司令官の情報参謀エドウィン・レイトンは1985年に刊行した著書の中で「日本は偽電を打っていない」と証言し、「偽電はこれまでに発見されていないし、もし日本が偽電を実施していたらそれは馬鹿げたことで、見破られていた」と言っている(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。
  • 須藤眞志 は無線封止は守られていたと言っている。出発した機動部隊が途中で見つかれば全ては水泡に帰し、天候上の理由から非常に危険な北方ルートを決断せねばならなかった。大遠征で航海中、給油をせねばならぬが、海上が荒れていれば不可能である。海軍では軍令部が中心となって、連合艦隊第一航空隊との間で通信計画が作成された。「電波戦闘管制」は最厳重な管制の場合で作戦上、緊急電報送信のほか、一切を電波発信禁止し、最高司令長官のみ命ずることが出来る。その60回も命令違反をしたというのは訳者の妹尾氏は「機動部隊は11月末から12月初めにかけ、最大風速35Mの台風にやられ、散り散りになった、艦隊を呼び集めるため、発光信号は頼りにならず、止む無く『禁断の電鍵』を叩いた」と証言している(『諸君』2002年6月号)。ところが逆の証言が多く、「北太平洋が思ったより穏やかで海霧が視程を低下してくれて助かり、洋上補給もうまくいった」と源田実は述べている(『真珠湾作戦回顧録』)。
  • 須藤眞志 戦後になって判明した事実がある。伊号二三潜水艦が一時行方不明[9]になり、その捜索のため、淵田美津雄が一度だけ電波を出したことがあると発言した(半藤一利『真珠湾の日』)。

脚注

  1. ^ ロバート・B・スティネット(Robert B. Stinnett)、1924年 -、カリフォルニア州オークランド出生。真珠湾攻撃時は高校在学中だった。翌1942年卒業と同時に海軍に入隊し、1946年まで現大統領のジョージ・W・ブッシュの元で太平洋大西洋の両洋の戦場に従軍。その軍功に対し青銅従軍星章10個並びに大統領感謝状を授与した。戦後オークランド・トリビューン紙の写真部員兼記者を勤めたのち、「真珠湾の真実」執筆のため退社する。出版を重ね、英国、イタリアでも出版。BBCNHKテレビ朝日の太平洋戦争顧問でもある。
  2. ^ ジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。『シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。
  3. ^ 野村吉三郎大使に渡した覚書「日本政府が隣国諸国を武力、若しくは武力威嚇による軍事的支配の政策、もしくはプログラム遂行のため、さらに何らかの措置を執るについては合衆国政府は説きを移さず合衆国及び米国民の合法なる権利防衛のため、及び合衆国の安全保障を確保する為同政府が必要と認める一切の手段を講ずるを余儀なくせらるべき旨言明することを必要なりと思考す。」
  4. ^ http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F04E1DA1031F935A15756C0A96F958260
  5. ^ 桑港の諜報員は八幡丸の無線局長T・ハラダから日本商船暗号「辛」(海軍暗号書)を四万ドルで買った(『真珠湾の真実-欺瞞の日』)。
  6. ^ ロシュホートの「広範な航空作戦」については1941年22日の通信概要より、RG80,PHLO,BOX41,第二公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。
  7. ^ 9月の早い時期にシアトルの第13海軍区(COM13)司令官チャールズ・フリーマン少将は「敵の潜水艦の脅威」について言及、北太平洋とアラスカの偵察機の飛行を実施して、「奇襲を予防する」許可を海軍作戦部長ハロルド・スターク大将に求めた。フリーマンに許可はなかった。RG187,COM13,Confidential通し番号121129,1941年9月17日付、シアトル国立公文書館参照。著者のファイルにコピーがある。
  8. ^ ロシュホートのハワイ方面へ先行する日本の潜水艦の追跡証言は1941年1月24日、25日、26日の通信概要日報参照。第二公文館。
  9. ^ 12月7日午後0時10分(現地時間)、アメリカ海軍司令部に一つの暗号電報が入電。「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ。」米軍艦が、公海上 ── アメリカの領海外において、日本海軍の潜水艦を攻撃、撃沈した事を報告する暗号電報。(米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75(1945年6月7日)、みすず書房『現代史資料 35巻』) このように、米軍は日本よりも先に手をだし、行方不明と思われる潜水艦を撃沈している。

参考文献

関連項目

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