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利用者:Kawaeee1975/sandbox

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やまかみたくじゅ

山上卓樹
生誕 1855年
武蔵国多摩郡
死没 1931年
国籍 日本の旗 日本
別名 山上作太郎
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山上 卓樹(やまかみ たくじゅ、1855年安政2年〉- 1931年昭和6年〉)は日本自由民権運動家、天主堂学校の校主。「部落解放運動先駆者」として評価されている。

来歴・人物

卓樹は、もとの名を作太郎といい1855年(安政2年)に武蔵国多摩郡下壱分方村福岡(後の神奈川県南多摩郡下壱分方村福岡、東京府南多摩郡元八王子村下壱分方福岡、現・東京都八王子市泉町)の皮革質屋を経営する山上春吉の長男に生まれる。1873年明治6年)に東京遊学し、中村正直同人社にて人間としての尊厳に目覚めたとされる。

1876年(明治9年)頃、親類の青年に誘われ横浜にてカトリックに触れ、司祭テストウィードより受洗する。その後、テストウィードの指導のもと、山口重兵衛と共に郷里被差別部落伝道し、1878年(明治11年)年10月25日、部落内に聖瑪利亜教会会堂が完成し、開堂式にはカトリック東京大司教区の初代大司教教区長)のオズーフも出席した。

当時、この地方を管轄していた神奈川県より、学校から被差別民を排除することを禁ずる県達1877年〈明治10年〉7月10日付)が通達されていたにも拘わらず、福岡部落の子供たちは学校から入学を拒否されていた。そのため、作太郎は聖瑪利亜教会で部落の子供や大人達に読み書き算盤を教えたので、この教会は「天主堂学校」と呼ばれた。

1880年(明治13年)、全国的に国会開設を求める運動が高まると、多摩の各地には自由党の活動拠点・政治学校が複数設立した。これにより多摩は自由党の党員数・比率の両方において全国有数の勢力となり、党総理の板垣退助から「自由のとりで」、「自由党の東北鎮台」と呼ばれた。このような自由民権運動の高まりの中で、作太郎は1882年(明治15年)に自由党に入党、1884年(明治17年)には民権結社「鴻武館」を設立する。この頃、作太郎を始めとする多数の被差別部落民が民権運動に参加したことから、福岡部落の動きを「部落解放運動の先駆」と評価する者もいる。 民権運動の一環として作太郎は密かに爆裂弾作製を試み、実験中に負傷する。その後1885年(明治18)年の大阪事件で同志が軒並み逮捕されると、作太郎は暴力的運動から距離を置くようになる。

1889年(明治21年)4月1日の町村制の施行によって、下壱分方村を含む地域は元八王子村となり、作太郎は助役として福岡部落を含む村域全体での有力者となった。

1892年(明治25年)、福岡部落に大火が発生し、教会も焼失する。これ以後、部落外に人口が流出する。また同年、テストウィードの後任として着任した司祭のメイランは,信仰上の問題について作太郎たちを批判し、天主堂学校への財政支援も中止したため、学校は閉鎖に追い込まれた。

1893年(明治26年)、作太郎は卓樹と改名し、その後は部落産業の指導者として地域の権力者となる。しかし、徐々に経済力を失い、1907年(明治40年)に福岡部落を去り、1931年(昭和6年)に死去した。 この間、1922年大正11年)には全国水平社が創立されたが、卓樹は特に発言はしていないようである。

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