東京ヴェルディ1969
東京ヴェルディ1969 | |
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原語表記 | 東京ヴェルディ1969 |
愛称 | ヴェルディ |
クラブカラー | 緑 |
創設年 | 1969年 |
所属リーグ | Jリーグ |
所属ディビジョン | ディビジョン2 |
ホームタウン | 東京都 |
ホームスタジアム | 味の素スタジアム |
収容人数 | 50,000 |
代表者 | 萩原敏雄 |
監督 | ラモス瑠偉 |
公式サイト | 公式サイト |
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東京ヴェルディ1969(とうきょうヴェルディいちきゅうろくきゅう、Tokyo Verdy 1969)は、プロサッカークラブ「日本テレビフットボールクラブ」が運営するトップチーム「FCニッポン」の呼称。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟している。旧呼称はヴェルディ川崎。
Jリーグ創設時からの加盟チームのひとつ。1991年Jリーグ加盟。ホームタウンは東京都(2000年までは神奈川県川崎市)。ホームスタジアムは味の素スタジアム(東京スタジアム)。
クラブの概要
1969年、「読売サッカークラブ」の名で、日本初の本格的なスポーツクラブとして創立。1991年Jリーグ加盟。ホームスタジアムは東京都調布市にある味の素スタジアム(2001年から。2000年までは川崎市中原区にある川崎市営等々力陸上競技場を使用していた)。呼称のヴェルディはポルトガル語の「verde(ヴェルデ):緑」からの造語(結果的にイタリア語の複数形と発音が同じ)。1969は、1969年に前身の読売サッカークラブが創設されたことから取られた。
新聞社のスポーツ欄掲載の記録ページでは1998年までは単に「川崎」と現していたが、1999年から川崎フロンターレがJ2に参加したことから、これとの区別のため「V川崎」(但し、ナビスコ杯にはフロンターレも準加盟枠で参加したため1997年以後この表記)としていた。東京移転後の2001年からはFC東京と区別するため「東京V」としている(一部新聞等では「東京ヴ」と表記していることもある)。
クラブハウス・練習場は、読売クラブ、ヴェルディ川崎時代から一貫して、東京都と神奈川県川崎市の境界にあるよみうりランド内のヴェルディグラウンド(通称「ランド」)を、男子トップチーム以外の下部組織と一緒に使用している。グラウンドの位置は川崎市内だが、住所上は東京都稲城市である。ちなみにユースなどの下部組織チームは、ヴェルディ川崎時代においても東京都サッカー協会の所属のままだった。
男子チームの他に、女子チーム日テレ・ベレーザとその下部組織である日テレ・メニーナを所有している。トップチームであるベレーザはL・リーグ(なでしこリーグ)で常に優勝争いを繰り広げている日本女子サッカーにおける強豪の一つである。日本女子代表(なでしこジャパン)のエース澤穂希もベレーザに所属である。
サッカー以外では2001年のヴェルディ東京移転にあわせてバレーボールの東京教員クラブを引き継ぎ東京ヴェルディバレーボールチームを発足した。現在V1リーグ(日本バレーボールリーグ機構の2部組織)に所属する。この他にトライアスロンのチームもある。これらはJリーグの目指す総合スポーツクラブへの一環である。
ここがヘンだよ日本人にヴェルディ川崎時代の通訳の石橋ジョニーが出演していた。
クラブの歴史
前身
当時、日本のサッカーが、まだアマチュアスポーツの域に甘んじていた1969年に読売サッカークラブ創部。東京都リーグBに加盟。実は、このチームが、日本のスポーツクラブの先駆けとなった。 当時学校体育あるいは部活動の一環としてのサッカーに飽きたらなかった若者を取り込んで学校のサッカー部を倒せるまでに成長したと言われている。 1972年にJSL2部に昇格。その選手達の高いプロ意識と洗練されたテクニックに裏打ちされた攻撃的なスタイルは、当時の日本サッカーに衝撃を与え、とどまることことのない快進撃と共に日本のサッカースタイルを変えたとも言われている。また現在のJリーグが謳う下部組織の充実と地域に根ざした活動をいち早く実践したのもこの読売サッカークラブである。もちろん、JSL優勝5回、天皇杯優勝5回、JSLカップ優勝3回と輝かしい戦績を残した。
川崎時代
1991年10月、Jリーグ開幕に備えて、読売新聞社、よみうりランド(練習場所在地)、日本テレビ放送網の3社出資による運営会社「株式会社読売日本サッカークラブ(よみうりにほん-)」が設立されたが、東京都に同リーグの規格に合ったスタジアムがなかったため、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とすることになる。等々力陸上競技場は収容人員がJリーグの規格外であったことから問題となったこともあったが、1995年までに段階を追って増築を敢行。25000人収容となった。
Jリーグ発足前後の92年から93年にかけて、クラブの出資者である、読売系のメディアを中心として読売ヴェルディと言う呼称が用いられていた。これには、既に長年、クラブチームとして「読売」の呼び名でファンに親しまれていたという理由に加え、プロ野球と同じようにJリーグも企業重視の姿勢が必要であること、また「川崎」は鉄鋼メーカー・川崎製鉄(現・JFEスチール)と重機械メーカー・川崎重工業の商標であるため、商標権侵害の恐れがある、また東京への移転問題などといった理由が挙げられた。しかし、Jリーグはチーム名表記に際して企業名を排除してホームタウンの自治体(都道府県名、ないしは市区町村名)+ニックネームで使用する方針を定めていたため、1994年のシーズン開幕前から読売系のマスメディアでも「ヴェルディ川崎」に表記を統一するようになった。
Jリーグ発足当初は最強チームとして君臨し、ラモス瑠偉(現:監督)、三浦知良(現:横浜FC)、ビスマルク、北澤豪、武田修宏などを擁して1993年シーズンの初代Jリーグ年間チャンピオンとなった。1994年も年間チャンピオンになり、1996年には天皇杯優勝を果たしたが、その後はチーム力が低下し、スタジアムの拡張に逆行する形で観客動員数も減少した。
1998年のシーズン後に読売新聞社(2006年からオフィシャルスポンサーとして看板広告を掲出)とよみうりランドが経営から撤退し、日本テレビ放送網が全額出資(その後2001年の東京移転の際、稲城市や清水建設、京王エージェンシー〔京王電鉄系列の広告代理店〕など地元企業も出資したため、日テレ自らの資本は約79%)となる。またそれに伴い運営法人名は「株式会社読売日本サッカークラブ」から「株式会社日本テレビフットボールクラブ」、トップチーム名は「FCニッポン」に変更された。
東京移転後
2001年にホームタウンを川崎市から東京都に移転し、呼称も現在の名称となった。この際に調布市の味の素スタジアム(当時は東京スタジアム)をホームスタジアムにした。この年はJ2降格の危機に追い込まれたが、シーズン終盤に入団した元ブラジル代表FWのエジムンドの活躍で残留に成功。その後、2003年からはカメルーン代表FWパトリック・エムボマが加入し、同年途中からオズワルド・アルディレス監督が指揮を執っていた。
2004年度の天皇杯全日本サッカー選手権大会(2005年1月1日)を制し8年ぶり、東京移転後初のタイトルを獲得(同日行われた全日本女子サッカー選手権大会では女子チームのベレーザが優勝し、全日本選手権初の男女同時優勝の快挙だった)。
2005年シーズンには2004年ブラジル代表経験者でありブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得した。しかし、FIFAコンフェデレーションズカップ中断明けの7月2日のガンバ大阪戦、7月6日の浦和レッズ戦、7月17日のジュビロ磐田戦での大量失点が響き(ちなみにガンバには1-7で大敗したが、11年前の94年のナビスコカップでは7-1で勝っていた。見事に数字が入れ替わる形となった)、アルディレス監督が解任され、バドンが新監督に就任したが、思うように試合が動かず、11月26日の柏レイソル戦で1-5の大敗を喫し、J2降格が決まった。これを受けてバドン監督は退任した。(ちなみに天皇杯優勝によって獲得した2006年度AFCチャンピオンズリーグの出場権がJ2降格によって剥奪されるのではないかと心配されていたが、AFCから出場が認められた)。
- 過去にJリーグのタイトルを獲得したチームのJ2降格は、サンフレッチェ広島(1994年サントリーシリーズ1位。2002年度のJ1年間15位でJ2降格。2003年度のJ2で2位に入り1年でJ1復帰)以来のケースで、年間チャンピオンを獲得したチームが降格するのはJリーグ初のことだった。このJ2降格は、読売クラブ・ヴェルディ川崎時代からのオールドなサッカー・Jリーグマニアに衝撃が走った。
2006年からは、柏レイソルのコーチであり、ヴェルディOBのラモス瑠偉が監督に就任。新体制の下で1年でのJ1復帰が目標になった。そのためにはJ1最多失点を喫した守備陣の立て直し、さらにチーム総得点40のうち22点を叩き出したワシントンの浦和レッズへの完全移籍放出に伴う攻撃陣の強化、さらにJ2リーグ(48試合)とAFCチャンピオンズリーグ(最低でも予選6試合はこなさなくてはならなかったが、インドネシア・タイからの代表クラブが失格となったため、予選は蔚山現代ホランイとの2試合になった)を含め年間50試合以上の公式戦をこなさなくてはいけないため、選手のモチベーションの維持といった課題を克服する必要があった。また、4月18日の日本テレビサッカークラブ株主総会で、サイバーエージェント社が株式の48.1%を取得し、50.7%を保有して同社を連結子会社として維持する日本テレビ放送網に次ぐ大株主となる事が、藤田晋サイバーエージェント社長の同クラブ取締役就任と合わせて承認された。
こうして臨んだ2006年シーズンだったが、当初の課題であった失点の多さは解消されなかった。チーム構成もヒキ、アナイウソン、バジーリオの外国籍選手3人をシーズン途中に解雇するなど頻繁な入れ替えが行われ、スタメンも固定しきれず、安定感を欠いた戦いが続いた。10月28日、水戸ホーリーホックに1-4で敗れ、J1復帰の可能性はなくなった。最終順位は7位で終了した。
2007年も引き続きラモス監督が指揮を執ることが決定。選手会長だった柳沢将之を含む大量12人を放出。新たに元日本代表の服部年宏、名波浩を始め土屋征夫、佐藤悠介、フッキとベテランを中心に積極的な補強を行っている。さらに新人選手も大量7人の加入が内定しており、チーム構成が劇的に変化しつつある。
下部組織
男子トップチームの下部組織として小学生段階からスクールを全国各地に展開している。またユースからトップへの昇格も多いことからヴェルディの下部組織には定評がある。クラブで育った選手がそのままコーチとして子供たちを教えることが多いのがヴェルディの育成組織の一つの特徴である。
ホームタウンの移転
川崎から東京への移転
もともと読売クラブは練習場が都県境のよみうりランドにある事から、JSLのホームゲームは駒沢や等々力を利用していた。JSLではホームタウンの概念があいまいだったため、問題にはならなかった。また、下部組織の選手達も東京都と神奈川県にまたがる地域から集まっていた。
Jリーグ創立にあたりホームタウンの明確化が必要になると、ヴェルディは東京を本拠地と希望したが、5万人を超える収容人数を誇る国立競技場は全クラブに開放される中立地とされ、もう一つの有力候補であった2万人収容の駒沢では隣接する国立東京第二病院(現在の東京医療センター)のためにナイトゲーム開催ができないという制約が付けられたため、1万5千人という当時のJリーグ参加規定を満たすホームスタジアムが都内では見つからなかった。そのため、同様に東京を希望していた三菱自動車(現在の浦和レッドダイヤモンズ)とともに都外でのホームタウンを探す事になり、等々力をホームスタジアム、川崎市をホームタウンとした。
なお、当時圧倒的な人気と巨大メディアグループのバックアップを持っていたヴェルディが首都である東京をホームにすることによりリーグの均衡が崩れることを恐れたJリーグがヴェルディの東京ホーム化を認めなかったとする見解もある。2000年にJ1昇格を果たしたFC東京の場合は、翌年の東京スタジアム開場までの1年限定として、名目上は駒沢、実質的には国立をホームスタジアムとする事を認められた。
しかし、Jリーグ発足後もヴェルディは東京都内への移転を模索した。1993年には東京都調布市にある米軍基地の跡地利用として「武蔵野の森スタジアム」(当時の仮称。後に東京スタジアムと命名され、現在は味の素スタジアム)構想が発表されたのに合わせ、ここへの移転構想を発表し、調布市も積極的に誘致に乗り出した。しかし、数年後のスタジアム完成までの本拠地が不透明で、なおかつJリーグ開幕初年度での移転構想という事もあり、地域密着理念の全面否定と受け取ったJリーグは拒絶した。また、読売系のメディアでは「読売ヴェルディ」と表記された上、等々力の大規模改修に着手した時点での移転通告を受けた川崎市が猛反発し、移転には同意しないと通告した。この結果、この移転計画はほどなく白紙撤回に追い込まれた。
その後は川崎市でのホームタウン活動を開始し、優勝時の川崎市役所パレードなども行った。ただ、Jリーグチャンピオンシップのホームゲームなど、集客の見込める試合の多くは国立開催を積極的に行った事で川崎市民からの信頼は得られず、2万5000人へのスタンド増築が終わった1995年以降の等々力では次第に空席が目立つようになった。これはクラブ経営の悪化、成績の低迷、主力選手の放出などと一連の悪循環を形成した。
この危機を打開するため、ヴェルディは1999年に再度東京移転構想を発表した。この時には既に武蔵野の森スタジアムが「東京スタジアム」として2001年に開業される事が確実になっており、東京都内では既にFC東京がこのスタジアムの将来利用を前提としてJ2での活動を開始していた。また、前回はJリーグクラブの流出に抵抗した川崎市も、1997年発足の川崎フロンターレへの支援を強化していた事もあり、ヴェルディの東京移転を容認した。ただし、東京移転後は等々力でのホームゲーム開催を一切認めないなど、両者の関係は冷却したままで終了する事になった。
これらの結果、フロンターレとの「川崎ダービー」がJ1とナビスコ杯で実現した2000年シーズンをもってヴェルディは等々力を離れ、2001年からは東京スタジアムをホームスタジアムとした。
東京移転後の状況
東京移転後、観客動員数は回復した。2000年には1試合平均動員数が7609人まで落ち、等々力では3000人台の試合も珍しくなかったのが、2001年には1万9396人まで急増し、その後も1万5000人前後を維持している。ただ、同じスタジアムを使用しているFC東京との「東京ダービーマッチ」では、FC東京のサポーターの方が圧倒的に多かった。
東京移転後は地域活動も活発に行っており、Jクラブの中でも地域活動回数はトップ。特にクラブ所在地の稲城市、他に立川市や渋谷区などで積極的にイベント活動を展開している。他に日野市や八王子市など京王電鉄沿線都市でのPR活動が盛んである。
開催スタジアム問題
川崎時代は、通常の試合を等々力、集客の見込める試合を国立という使い分けを基本とし、地方都市での開催も比較的多かった。1997年からは等々力がフロンターレとの共有状態になったが、Jリーグ所属のヴェルディの方が優位だった事と(2000年は両チームともJ1)、基本的にはJリーグは土曜、旧JFLは日曜開催で分散されていた事などから、開催スタジアムで困る事はなかった。なお、東京移転発表後の2000年の天皇杯では、ホーム扱いの3回戦を平塚で開催している。
2001-2005年は、味の素スタジアム(東京スタジアム)をFC東京と共用する事になった。ともにJ1ということで、両者のホームゲーム節が重複しないように調整が可能だった。その中で、年に数試合は国立でのホーム開催を行った。
2006年シーズンはホームゲームがFC東京と同じ日(または節)で重複することがあっても、J1チームであるFC東京に味の素スタジアムの優先使用権があるため、J2のチームでは初めて国立を使用することとなった。また、ACLのグループリーグ主催試合(3試合の予定だったのが1試合のみとなる)も国立開催となった。なお、その他同じ都区内にある駒沢や、西が丘でも主催試合を実施する事になった。
スタイル
クラブチームとしての長い伝統のためか、選手が変わり監督が替わってもそのサッカースタイルが大きく変貌することは少なく、Jリーグの中でも最も個性が際立ったクラブの一つである。
Jリーグ年度別成績
年度 | リーグ | J1/J2 | 順位 | 成績 |
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1993年 | サントリー | J1 | 2位 | 12勝6敗 |
1993年 | ニコス | J1 | 1位 | 16勝2敗 |
1994年 | サントリー | J1 | 4位 | 14勝8敗 |
1994年 | ニコス | J1 | 1位 | 17勝5敗 |
1995年 | サントリー | J1 | 2位 | 16勝10敗 |
1995年 | ニコス | J1 | 1位 | 19勝7敗 |
1996年 | 年間 | J1 | 7位 | 19勝11敗 |
1997年 | 1st | J1 | 16位 | 4勝12敗 |
1997年 | 2nd | J1 | 12位 | 6勝10敗 |
1998年 | 1st | J1 | 6位 | 10勝7敗 |
1998年 | 2nd | J1 | 17位 | 3勝14敗 |
1999年 | 1st | J1 | 2位 | 11勝3敗1分 |
1999年 | 2nd | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 |
2000年 | 1st | J1 | 9位 | 7勝7敗1分 |
2000年 | 2nd | J1 | 10位 | 5勝7敗3分 |
2001年 | 1st | J1 | 16位 | 4勝11敗0分 |
2001年 | 2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 |
2002年 | 1st | J1 | 12位 | 5勝9敗1分 |
2002年 | 2nd | J1 | 4位 | 8勝5敗2分 |
2003年 | 1st | J1 | 10位 | 6勝8敗1分 |
2003年 | 2nd | J1 | 9位 | 5勝4敗6分 |
2004年 | 1st | J1 | 9位 | 5勝6敗4分 |
2004年 | 2nd | J1 | 9位 | 6勝7敗2分 |
2005年 | 年間 | J1 | 17位 | 6勝16敗12分 |
2006年 | 年間 | J2 | 7位 | 21勝19敗8分 |
合計 | - | J1 | - | 216勝190敗36分 |
合計 | - | J2 | - | 21勝19敗8分 |
タイトル
- サンワバンクカップ:1回 - 1994年
歴代監督
- 松木安太郎(1993年~1994年)
- ネルシーニョ(1995年~)
- 岸野靖之[代行](1996年4月)
- レオン(1996年5月~)
- 加藤久(1997年~)
- エスピノーザ(1997年6月~)
- 川勝良一(1997年12月)
- ニカノール(1998年~)
- 川勝良一(1998年9月~)
- 李国秀[総監督](1999年~2000年)
- 松永英機(1999年)
- 張外龍(2000年)
- 松木安太郎(2001年~)
- 小見幸隆(2001年7月~)
- ロリ・パウロ・サンドリ(2002年4月~)
- レアンドロ(2003年5月)
- オズワルド・アルディレス(2003年6月~2005年)
- 石崎信弘[代行](2005年7月~)
- バドン(2005年8月~)
- ラモス瑠偉(2006年~)
ユニフォーム
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チームカラー
- チームカラーは緑色
ユニホームスポンサー
- 胸 サイバーエージェント(企業CIロゴ)
- 袖 TOMAS
- 背中 CyberAgent(社名の英語表記)
- パンツ SOPH.
- 練習着 ハーベストフューチャーズ
- ※なお、AFCチャンピオンズリーグの試合に関しては規定上の関係で上記企業のロゴは入れず、胸に「日テレ」のロゴを入れる。
過去のユニホームスポンサー
- コカ・コーラ(1992~95 胸、背中)
- マクドナルド・ハンバーガー(1993~95 袖)
- サントリー・モルツ(1996~1998 胸)
- サントリー(1996~98 背中)
- コナミ(1996~98 袖、1999~2001 胸、背中、2002 胸のみ)
- 楽天(2003 胸)
- レオック(2004年 胸)
- CORNES(2002~2004年 背中)
スポンサー企業に関する余談
- コカ・コーラとユニホームスポンサーを結んでいた1994年、彼らヴェルディの選手をモデルに起用したコマーシャルが放映され、ヴェルディの主力選手が多数出演したが、エース・三浦知良はこのCMに出演できなかった。というのも、三浦はソフトドリンク業界ライバルでJリーグのスポンサーでもあるサントリーとCM契約を結んでおり、デカビタCのCMに出演したため。
ユニホームサプライの遍歴
- 1992年 プーマ
- 1993~96年 リーグ戦、カップ戦共にミズノ
- 1997年~ リーグ戦、カップ戦共にナイキ(但し、1997年度のリーグ戦ではナイキがJリーグのサプライ契約を結んでいなかったので、ナイキのロゴを付ける事が出来ずヴェルディの自主製作扱いとされた)
チーム名の変遷
- 1969年~ 読売サッカークラブ
- 1992年~ ヴェルディ川崎
- 2001年~ 東京ヴェルディ1969