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'''路 恵男'''(ろ けいだん、[[義熙]]8年([[412年]]) - [[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[466年]][[2月24日]]))は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の文帝[[文帝 (南朝宋)|劉義隆]]の[[淑媛]](側室)。孝武帝[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]の母。[[本貫]]は[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]][[建康 (都城)|建康県]]。弟は路道慶。甥(路道慶の子)は路瓊之・路休之・路茂之。 |
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== 経歴 == |
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== 伝記資料 == |
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2022年2月23日 (水) 08:28時点における版
路 恵男(ろ けいだん、義熙8年(412年) - 泰始2年1月24日(466年2月24日))は、南朝宋の文帝劉義隆の淑媛(側室)。孝武帝劉駿の母。本貫は丹陽郡建康県。弟は路道慶。甥(路道慶の子)は路瓊之・路休之・路茂之。
経歴
路興之と徐氏(孝武帝により余杭県広昌郷君に封ぜられた)の娘として生まれた。容貌の美しさで選抜されて後宮に入り、劉駿を産んで、淑媛(嬪)に立てられた。齢を重ねて、文帝の寵愛もなくなり、劉駿の出藩に従って地方に下向した。元嘉30年(453年)2月、文帝が皇太子劉劭に殺害され、劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、恵男は尋陽にとどまった。4月、劉駿(孝武帝)が即位すると、建平王劉宏が恵男を迎えるべく派遣された。5月、恵男は皇太后に立てられ、宮を崇憲といった。顕陽殿に居住した。
大明5年(461年)、孝武帝の巡幸に従って南豫州に赴いた。大明8年(464年)、前廃帝が即位すると、恵男は太皇太后に立てられた。
泰始元年(465年)12月、明帝が即位すると、崇憲皇太后を号した。泰始2年(466年)正月、死去した。享年は55。諡は昭皇太后といった。孝武帝の景寧陵の東南に葬られ、陵号を修寧陵といった。