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== 生涯 ==
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[[享禄]]2年([[1529年]])、[[中国地方]]の[[戦国大名]]・毛利元就の次女として安芸[[多治比猿掛城]]で生まれる。母は元就の正室である[[妙玖]]。[[毛利隆元]]の妹で[[吉川元春]]の姉にあたる。隆元の上の長姉が幼時に[[高橋氏]]の養女(事実上の人質)となり、後に元就が高橋氏を滅ぼした際に高橋氏によって殺害されたこともあってか、五龍局は元就夫婦から溺愛された。
[[享禄]]2年([[1529年]])、[[中国地方]]の[[戦国大名]]・毛利元就の次女として安芸[[多治比猿掛城]]で生まれる。母は元就の正室である[[妙玖]]。[[毛利隆元]]の妹で[[吉川元春]]と[[小早川隆景]]の姉にあたる。隆元の上の長姉が幼時に[[高橋氏]]の養女(事実上の人質)となり、後に元就が高橋氏を滅ぼした際に高橋氏によって殺害されたこともあってか、五龍局は元就夫婦から溺愛された。


[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])、年頭の賀辞のため、元就が毛利氏と所領が隣接する[[安芸国]][[国人]]・[[宍戸氏]]の居城である[[五龍城]]を訪れる。その際に[[宍戸隆家]]と五龍局の婚姻が取り決められたという。
[[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])、年頭の賀辞のため、元就が毛利氏と所領が隣接する[[安芸国]][[国人]]・[[宍戸氏]]の居城である[[五龍城]]を訪れる。その際に[[宍戸隆家]]と五龍局の婚姻が取り決められたという。

2022年2月19日 (土) 04:50時点における版

五龍局(ごりゅう の つぼね、享禄2年(1529年[1] - 天正2年7月16日ユリウス暦1574年8月2日[1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。実名は「しん[2]毛利元就の次女。宍戸隆家の正室。五龍局以外にも、五龍、五龍姫、五龍の方、五もじなどと呼ばれた。

生涯

享禄2年(1529年)、中国地方戦国大名・毛利元就の次女として安芸多治比猿掛城で生まれる。母は元就の正室である妙玖毛利隆元の妹で、吉川元春小早川隆景の姉にあたる。隆元の上の長姉が幼時に高橋氏の養女(事実上の人質)となり、後に元就が高橋氏を滅ぼした際に高橋氏によって殺害されたこともあってか、五龍局は元就夫婦から溺愛された。

天文3年(1534年)、年頭の賀辞のため、元就が毛利氏と所領が隣接する安芸国国人宍戸氏の居城である五龍城を訪れる。その際に宍戸隆家と五龍局の婚姻が取り決められたという。

天文16年(1547年)、隆家との間に長男の元秀が生まれる。隆家との子のうち、長女の天遊永寿伊予国河野通宣に嫁いでいる。また次女は吉川元春の長男・元長の、三女の南の大方(清光院)毛利輝元の、それぞれ正室になっており、毛利一族の結束を固めるのに貢献した。

元就は息子達にむかって、「妹の五もじをふびんと思い、婿の宍戸隆家ともども、兄弟として大切にして欲しい。」「ひとなみすぐれた娘だ」「五もじは女のことゆえ、分別に欠けるところもあろうが、思いやりをかけてやってほしい。」と述べており、政略結婚をめぐる父と娘との断面を垣間見ることができる[3]

天正2年(1574年7月16日、死去。享年46。死因は卒中であったとされる。法名は法光院殿栄室妙寿禅尼[1]。墓所は伝承地が4ヶ所あり不明[注釈 1]。なお、夫の宍戸隆家の側の墓は、継室の石見繁継の姉の墓である。

脚注

注釈

  1. ^ 広島県安芸高田市甲田町浅塚に2ヶ所、広島県安芸高田市甲田町糘地に1ヶ所、広島県広島市安佐北区白木町大字井原に1ヶ所の計4ヶ所[4]

出典

関連作品

参考文献

  • 藤木久志 著「戦国乱世の女たち」、笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。 
  • 安芸高田市歴史民俗博物館『毛利元就をめぐる女性たち』安芸高田市歴史民俗博物館、2012年11月。 
  • 安芸高田市歴史民俗博物館『平成三十年度企画展「安芸宍戸氏~毛利一族、四本目の矢~」』安芸高田市歴史民俗博物館、2018年11月。 
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