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*[http://www8.ocn.ne.jp/~ryokan/ 良寛記念館] |
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*[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060917i405.htm]良寛 |
*[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060917i405.htm]若いとき良寛さんには妻がいた。 |
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2006年9月17日 (日) 09:01時点における版
良寛(りょうかん 宝暦8年10月2日(1758年11月2日) - 天保2年1月6日(1831年2月18日))は江戸時代の曹洞宗の僧侶、歌人。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚。
越後国出雲崎(現・新潟県出雲崎町)に生まれる。父、山本左門泰雄は、以南という俳人でもあった。良寛は、18歳のとき出家し、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。その頃義提尼より和歌の影響を受ける。48歳のとき、越後国上山の五合庵、61歳のとき、乙字神社境内の草庵、70歳のとき島崎村の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。最後を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。良寛は和歌の他、狂歌、俳句、俗謡、漢詩に巧みで、書も能くした。新潟県長岡市の隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子ども達と遊びという言葉と結びついて、人々の記憶に残っている。良寛は、子ども達と遊ぶことを好み、隠れん坊や、手毬をついたりして、よく遊んだという。ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子ども達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり、子ども達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子ども達に見つかってしまうではないか。」と言ったという。このような類いの話が伝えられ、子ども向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。
良寛を扱った作品
- 毬谷友子が初演以来矢代の他界を経てライフワークとして演じ続けている。