「花畑 (足立区)」の版間の差分
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「はなばたけ」と読んで新興住宅地と誤解する向きがあるが、正平7年(1352年)の古文書に「花俣」として登場する都区内屈指の古村である。その後「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領=将軍直轄地)であった。明治22年(1889年)近隣の8カ村が合併し、うち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生した。昭和39年(1964年)の花畑団地誕生まではほぼ純然たる農村地域であったと考えられる。昭和53年(1978年)2月に住居表示が実施された。その際、南花畑の一部となる旧・内匠本町(開拓者・芦川内匠に由来する)の住民による反対運動があり、内匠の表記が不可であるなら、忠臣蔵の浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)は浅野南花畑頭(あさの・みなみはなはたのかみ)にすべきとの声があった。 |
「はなばたけ」と読んで新興住宅地と誤解する向きがあるが、正平7年(1352年)の古文書に「花俣」として登場する都区内屈指の古村である。その後「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領=将軍直轄地)であった。明治22年(1889年)近隣の8カ村が合併し、うち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生した。昭和39年(1964年)の花畑団地誕生まではほぼ純然たる農村地域であったと考えられる。昭和53年(1978年)2月に住居表示が実施された。その際、南花畑の一部となる旧・[[内匠本町]](開拓者・芦川内匠に由来する)の住民による反対運動があり、内匠の表記が不可であるなら、忠臣蔵の浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)は浅野南花畑頭(あさの・みなみはなはたのかみ)にすべきとの声があった。 |
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2006年9月1日 (金) 13:30時点における版
花畑(はなはた)は、東京都足立区北東部にある地名である。1~8丁目まであり、他に南花畑が1~5丁目まである。北は毛長川を隔てて草加市、東は綾瀬川、南は六町、西は保木間と隣接する。
歴史
「はなばたけ」と読んで新興住宅地と誤解する向きがあるが、正平7年(1352年)の古文書に「花俣」として登場する都区内屈指の古村である。その後「花又」と表記されるようになり、江戸時代は一貫して御料所(天領=将軍直轄地)であった。明治22年(1889年)近隣の8カ村が合併し、うち最大だった花又の名に基づき「花畑」(村)が誕生した。昭和39年(1964年)の花畑団地誕生まではほぼ純然たる農村地域であったと考えられる。昭和53年(1978年)2月に住居表示が実施された。その際、南花畑の一部となる旧・内匠本町(開拓者・芦川内匠に由来する)の住民による反対運動があり、内匠の表記が不可であるなら、忠臣蔵の浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)は浅野南花畑頭(あさの・みなみはなはたのかみ)にすべきとの声があった。
地域
交通の便としては、東武線竹ノ塚駅バス10~15分、つくばエクスプレス六町駅バス5~15分となっている。7丁目に浅草はじめ各地の「お酉さま」の本社といわれる大鷲神社が鎮座する。農村から発達した住宅地域で主要な幹線道路はなく、公園・団地・都住・養護学校・介護付有料老人ホームの多いのどかな町である。現在、東部で区画整理事業が進行中で、古い家並や湾曲した古道が姿を消しつつある。