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「寛容のパラドックス」の版間の差分

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2018年9月26日 (水) 09:03時点における版

寛容のパラドックスparadox of tolerance)とは、カール・ポパーが1945年に発表したパラドックス。このパラドックスは、もし社会が無制限に寛容であるならば、その寛容は最終的には不寛容な人々によって奪われるか破壊されると述べる。ポパーは、「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という一見矛盾した結論に達した。

議論

哲学者カール・ポパーは、1945年に『開かれた社会とその敵』第1巻(第4章、注4)においてこのパラドックスを定義した[1]

「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

1971年、哲学者ジョン・ロールズは著書『正義論』において 、公正な社会は不寛容に寛容であらねばならないと結論づけている。そうでなければ、その社会は不寛容と言うことになり、そうするとつまり、不公正な社会ということになる。 しかし、ロールスはまた、ポパーと同様に、社会は寛容という原則よりも優先される自己保存の正当な権利を持っていると主張している。曰く、「不寛容派は、不寛容であるからと言って不寛容を申し立てられる正当な資格を持つわけではないが、寛容な人々が、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」[2][3]

1997年の著作で、マイケル・ウォルツァーは「我々は不寛容に寛容であるべきか?」と問いかけた。彼は、寛容の恩恵を受けている少数派の宗教団体のほとんどは、少なくともいくつかの点では、彼ら自身が不寛容であると指摘する。寛容な政治体制の元では、このような人々は寛容を学ぶかもしれないし、あるいは少なくとも、「あたかもそのような美徳を保有しているかのように」ふるまうかもしれない[4]

トマス・ジェファーソンは、最初の就任演説で既に「寛容な社会」という概念に言及していた。合衆国とその連合を不安定にする可能性のある人たちについて、曰く、「…彼らを邪魔しないでおけ。理性が間違った意見と自由に戦えるような場所では、間違った意見に寛容であっても安全である、ということの証として。」[5](訳注:トマス・ジェファーソンの大統領就任演説においてアメリカでは有名な一節)

「寛容」と「言論の自由」

寛容のパラドックスは、もし言論の自由のどこかに境界線が引かれるとすればどこに引かれるべきか、と言う議論において重要である。ポパーは、言論の自由を、それを自らが立脚しているまさにその原則を破壊するために用いる者たちに認めるのは矛盾であると主張した。[6]マイケル・ローゼンフェルドは、「思い通りになるなら反対派の言論を容赦なく抑圧するであろう過激派に、言論の自由を広げることは矛盾している」と述べ、「ヘイトスピーチに対する寛容」と言う問題に、西欧の民主主義社会と合衆国とでは異なるアプローチを取っていると指摘した[7]

ある者は、不寛容な発言は、単なる排他的態度のシグナルに過ぎないのだから、排他的態度に基づいた暴力や、直接的な抑圧的な行動などとは違った断罪の基準に従わなければならないと主張する。 「自らの独断に基づいて不寛容な発言を暴力的に押さえつける行動は、どのような場所でも暴力を正当化する。しかも、個々人のそれぞれの独断に基づいて、なのだぞ」[8]

寛容を暴力的に破壊する不寛容な言論を押さえつけるための、寛容な人々の側による暴力的な不寛容、に対する批判は、ユルゲン・ハーバーマス[9]カール=オットー・アーペル[10]によって創始された討議倫理学の特徴でもある。「合意に達する手段は、力という道具によって繰り返し追い出される(The means of reaching agreement are repeatedly thrust aside by the instruments of force.)」(Ibid. Habermas) 。

「ホモフィリー」と不寛容の関係性

ホモフィリー」(訳注:同じ趣味や価値観で繋がっている集団のこと。以下、日本語で解りやすく「友達グループ[要出典]」と訳す)と不寛容との関係性は、とある友達グループの中の寛容な人が、他のグループの寛容なメンバーとの良好な関係を結ぶか、あるいは今の自分がいる友達グループの不寛容なメンバーとの良好な関係を維持するか、どちらを選ぶかのジレンマに直面した時、はっきりと現れる。前者を選んだ場合、今の自分がいる友達グループの中の不寛容なメンバーが、自分と他のグループのメンバーとの良好な関係を許さず、結果として、自分と他の友達グループの寛容な同志との間に消極的な関係を必然的に招く。後者を選んだ場合、他のグループの個人に対して消極的な関係を取ることを選んだということは、今の自分がいる友達グループの中の不寛容なメンバーによって支持され、結果として、今の自分がいる友達グループ内の良好な関係を促進することになる。

このジレンマは、AgiderとParravanoの「不寛容者に対する寛容:社会的に安定したネットワークにおけるホモフィリー、不寛容、そして隔離」において考え出されたものだが[11]、このジレンマが個々人で構成される共同体を形作っており、そして彼らの関係はフリッツ・ハイダーバランス理論に従って形成された形に影響されている[12][13]

関連項目

参照

  1. ^ Popper, Karl, The Open Society and Its Enemies, volume 1, The Spell of Plato, 1945 (Routledge, United Kingdom); ISBN 0-415-29063-5 978-0-691-15813-6 (1 volume 2013 Princeton ed.)
  2. ^ Rawls, John (1971). A Theory of Justice. p. 220. ISBN 0-674-00078-1. 
  3. ^ Ding, John Zijiang (December 2014). “Introduction: Pluralistic and Multicultural Reexaminations of Tolerance/Toleration”. Journal of East-West Thought 4. http://www.cpp.edu/~jet/Documents/JET/Jet13/ding1-12.pdf. 
  4. ^ Walzer, Michael (1997). On Toleration. New Haven: Yale University Press. pp. 80–81. ISBN 0-300-07600-2 
  5. ^ “Thomas Jefferson, First Inaugural Address, Chapter 4, Document 33”. The Founders' Constitution (The University of Chicago Press) 1. (1801-03-04). http://press-pubs.uchicago.edu/founders/documents/v1ch4s33.html. 
  6. ^ Cohen-Almagor, Raphael (1994). “Popper's Paradox of Tolerance and Its Modification”. The Boundaries of Liberty and Tolerance: The Struggle Against Kahanism in Israel. University Press of Florida. p. 25. ISBN 9780813012582 
  7. ^ Rosenfeld, Michel (April 1987). “Review: Extremist Speech and the Paradox of Tolerance”. Harvard Law Review 100: 1457–1481. doi:10.2307/1341168. JSTOR 1341168. 
  8. ^ http://culturalanalysis.net/2017/12/11/ethical-dilemma-intolerance-intolerance/
  9. ^ Habermas, Jürgen (1990). Moral Consciousness and Communicative Action. Polity Press. p. 106 
  10. ^ Apel, Karl-Otto (1996). Selected Essays: Ethics and the Theory of Rationality. Humanities Press International. pp. 210–211 
  11. ^ Aguiar, Fernando; Parravano, Antonio (2013). “Tolerating the Intolerant: Homophily, Intolerance, and Segregation in Social Balanced Networks”. Journal of Conflict Resolution. doi:10.1177/0022002713498708. 
  12. ^ Heider, Fritz (1946). “Attitudes and Cognitive Organization”. Journal of Psychology 21: 107–12. 
  13. ^ Heider, Fritz (1958). The Psychology of Interpersonal Relations. New York: Psychology Press. ISBN 9780898592825 

外部リンク

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