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'''ケネス・グラント'''、Grant, Kenneth、[[1924年]] - [[2011年]]は、[[イギリス]]([[イングランド]])の[[神秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術師|en|Ceremonial magic}}、著述家。
'''ケネス・グラント'''、Grant, Kenneth、[[1924年]] - [[2011年]]は、[[イギリス]]([[イングランド]])の[[神秘学|オカルティスト]]、{{仮リンク|儀式魔術|label=儀式魔術師|en|Ceremonial magic}}、著述家。
20世紀英国を代表する性魔術左派の解説者。[[オースティン・オスマン・スペア]]の遺著管理人。
20世紀英国を代表する性魔術左派の解説者。[[オースティン・オスマン・スペア]]の遺著管理人。
クロウリー最晩年の弟子であり、師匠のもとで性魔術の基本を学んで、O.T.O.の参入者となった。
クロウリー最晩年の弟子であり、師匠のもとで性魔術の基本を学んで、O.T.O.の参入者となった。



2018年5月9日 (水) 07:54時点における版

ケネス・グラント、Grant, Kenneth、1924年 - 2011年は、イギリスイングランド)のオカルティスト儀式魔術師英語版、著述家。 20世紀英国を代表する性魔術左派の解説者。オースティン・オスマン・スペアの遺著管理人。 クロウリー最晩年の弟子であり、師匠のもとで性魔術の基本を学んで、O.T.O.の参入者となった。

経歴

第二次世界大戦後の魔術会でもっとも有名かつ本格的な魔術合戦の当事者。

この1955年に起きたケネス・グラント対ジェラルド・ガートナー戦、またの名を「緑色のスライム」事件の模様はグラント自身が後年、「人間、神話、魔術」というオカルト百科事典に寄稿しており詳細が明らかになっている。

1947年のクロウリー死後、イギリスのO.T.O.は、後に近代魔女術の祖となるジェラルド・ガードナーが主宰していたが、魔女術に没頭しO.T.O.の活動が疎かになっていた。アメリカのO.T.O.総本部の責任者カール・ゲルマーはガードナーのサボタージュを憂慮し、1952年イギリスのO.T.O.の新責任者としてグラントを指名した。 グラントはゲルマーの指導のもと初伝三位階の入門儀式を素直に行っていたが、1955年にゲルマーから突如離反して自己の組織「ニュー・イシス・ロッジ」を創立。同年7月20日、激怒したゲルマーから破門される。

 ガードナーの魔女クラブに入会したが完全に才能が開花しなかったクランダという女性がグラントのニュー・イシス・ロッジに参入したことを発端に、クランダは水の魔女(ウオーターウィッチ)と呼ばれる特殊な才能の持ち主であったため、ガードナーがグラントに対して魔術戦を仕掛け勃発したのが「緑色のスライム」事件である。ガードナーは魔物を放ち、グラントは霊的バリヤーで応戦し、結果は護符を制作したスペアが1年とたたず死去し、クランダもニュージーランドに移住後に溺死し、この霊媒争奪戦は2人の死者を出して終結した。

 以後、地道に「ニュー・イシス・ロッジ」を運営していたが、60年代後半のオカルトブームに乗って魔術界に登場。クロウリー作品の復刻などに尽力する一方、O.T.O.の首領を名乗って物議をかもす。ただし、グラントは首領宣言をするのみであり、少数の弟子を率いて室内活動を行うにとどまっている。  グラントは20世紀後半の魔術界に於いて、ただでさえ異端のクロウリー系にあってさらに異端を求める者たちの憧れの的となっており、彼に紹介されて魔術界にデビューする研究家も多かった。

魔法名

著書

日本語訳されたもののみ記載。

  • The Magical Revival, Muller, London, 1972 『魔術の復活』植松靖夫訳、国書刊行会、1983年。  
  • Aleister Crowley and the Hidden God, Muller, London, 1973 『アレイスター・クロウリーと甦る秘神』植松靖夫訳、国書刊行会、1987年。 

脚注

関連項目

外部リンク

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