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「永松為治郎」の版間の差分

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慶応元年(1865年)、[[大分県]][[宇佐郡]][[駅館村]]に生まれる。家が貧しかったため20歳まで商店に奉公し、[[明治]]17年に[[大分市|大分]]へ出て、人並みならぬ努力で学業に励む。明治18年、[[熊本県立済々黌高等学校|済々黌]]で学ぼうとするも、学資が足りなかったため[[熊本県庁]]に奉職する。その後[[徳島県]]、[[青森県]]の税務に従事した後、[[大蔵省]]煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。
慶応元年(1865年)、[[大分県]][[宇佐郡]][[駅館村]]に生まれる。家が貧しかったため20歳まで商店に奉公し、[[明治]]17年に[[大分市|大分]]へ出て、人並みならぬ努力で学業に励む。明治18年、[[熊本県立済々黌高等学校|済々黌]]で学ぼうとするも、学資が足りなかったため[[熊本県庁]]に奉職する。その後[[徳島県]]、[[青森県]]の税務に従事した後、[[大蔵省]]煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。


[[大日本共同運輸会社]](同社取締役に[[日清紡ホールディングス|日清紡]]・[[鐘紡]]設立に関わった[[佐久間福太郎]]氏)専務取締役、[[ラサ工業|ラサ島燐礦株式会社]](現[[ラサ工業]])監査役に就任する。また当時、精製糖におけるシェア第2位の[[名古屋製糖|名古屋製糖株式會社]](後に[[三井製糖]]に合併)取締役、第5位の[[三井製糖|横濱製糖株式會社]](現[[三井製糖]])支配人も務めた
[[大日本共同運輸会社]](同社取締役に[[日清紡ホールディングス|日清紡]]・[[鐘紡]]設立に関わった[[佐久間福太郎]]氏)専務取締役、[[ラサ工業|ラサ島燐礦株式会社]](現[[ラサ工業]])監査役に就任する。また当時、精製糖におけるシェア第2位の[[名古屋製糖|名古屋製糖株式會社]](後に[[三井製糖]]に合併)取締役、第5位の[[三井製糖|横濱製糖株式會社]](現[[三井製糖]])支配人も務めた


[[大正]]4年、[[第12回衆議院議員総選挙]]に出馬するも落選(同区からは[[小泉又次郎]]らが当選)。同年、[[橋本圭三郎]]らと[[宝田石油]]へ入社し、その後[[日本石油]](現[[新日本石油]])重役となる。昭和14年(1939年)に逝去。
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2018年4月29日 (日) 16:43時点における版

永松為治郎(ながまつ ためじろう、1865年(慶応元年) - 1939年(昭和14年))は、日本の実業家官僚

人物

慶応元年(1865年)、大分県宇佐郡駅館村に生まれる。家が貧しかったため20歳まで商店に奉公し、明治17年に大分へ出て、人並みならぬ努力で学業に励む。明治18年、済々黌で学ぼうとするも、学資が足りなかったため熊本県庁に奉職する。その後徳島県青森県の税務に従事した後、大蔵省煙草専売局に入省。専売支局長に任じられた後、大蔵省本局勤務となる。その後退官し、実業界へ転ずる。

大日本共同運輸会社(同社取締役に日清紡鐘紡設立に関わった佐久間福太郎氏)専務取締役、ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)監査役に就任する。また当時、精製糖におけるシェア第2位の名古屋製糖株式會社(後に三井製糖に合併)取締役、第5位の横濱製糖株式會社(現三井製糖)支配人も務めた。

大正4年、第12回衆議院議員総選挙に出馬するも落選(同区からは小泉又次郎らが当選)。同年、橋本圭三郎らと宝田石油へ入社し、その後日本石油(現新日本石油)重役となる。昭和14年(1939年)に逝去。

大正3年から昭和3年にかけて、計六千円以上(現在の貨幣価値で約七千万円)の寄付を行い、地域発展に寄与した。

参考文献

  • 『日本紳士録』交詢社、第12-21版、第25-36版。
  • 『人事興信録』人事興信所、第3-5版、第8版。
  • 『大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年。
  • 『宝田石油株式会社25年史』宝田石油(株)、1920年。
  • 『日本石油史: 創立70周年記念』日本石油(株)、1958年。
  • 『宇佐市史』宇佐市刊行会、1979年。
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