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[[東北高等学校|東北高校]]では[[1961年]]、2年生の時に[[第43回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に[[一塁手]]として出場<ref name=jinmei />。2回戦で[[岐阜県立岐阜商業高等学校|岐阜商]]に敗退。高校同期に[[日下正勝]][[左翼手]]、村上宏通[[二塁手]]([[阪急ブレーブス|阪急]])がいる。翌年の夏は東北大会準決勝に進出、リリーフとして登板するが、[[福島県立保原高等学校|保原高]]に敗れ甲子園出場を逸した。


[[1963年]]に[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]に入団<ref name=jinmei />。一時は[[高橋重行]]らとともに整理対象寸前であったが、当時の[[別所毅彦]]コーチにドロップボールを伝授され蘇る。[[1965年]]4月にはこれを武器に一軍で初先発、[[阪神タイガース]]を完封し初勝利を飾る。同年は先発陣の一角として9勝を挙げた。その後も毎年30試合前後に登板するが、結果を残せず段々と登板機会を減らす。[[1973年]]に[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]へ移籍、この年を最後に[[引退]]した<ref name=jinmei />。オーバースローから重い球を投げ込み、球種はスライダー、カーブ、シュート、落ちる球であった。
[[1963年]]に[[横浜ベイスターズ|大洋ホエールズ]]に入団<ref name=jinmei />。一時は[[高橋重行]]らとともに整理対象寸前であったが、当時の[[別所毅彦]]コーチにドロップボールを伝授され、現役維持。[[1965年]]4月にはこれを武器に一軍で初先発、[[阪神タイガース]]を完封し初勝利を飾る。同年は先発陣の一角として9勝を挙げた。その後も毎年30試合前後に登板するが、結果を残せず段々と登板機会を減らす。[[1973年]]に[[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]へ移籍、この年を最後に[[引退]]した<ref name=jinmei />。オーバースローから重い球を投げ込み、球種はスライダー、カーブ、シュート、落ちる球であった。


[[1965年]]にはシーズン最多暴投(14暴投)のプロ野球タイ記録<ref name=jinmei />。[[1965年]]~[[1967年]]まで3年連続でシーズン最多暴投を記録する。
[[1965年]]にはシーズン最多暴投(14暴投)のプロ野球タイ記録<ref name=jinmei />。[[1965年]]~[[1967年]]まで3年連続でシーズン最多暴投を記録する。

2017年12月9日 (土) 07:03時点における版

及川 宣士
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岩手県釜石市
生年月日 (1944-06-08) 1944年6月8日(80歳)
身長
体重
178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1963年
初出場 1965年
最終出場 1973年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

及川 宣士(おいかわ のぶじ、1944年6月8日 - )は、岩手県釜石市[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは投手

来歴・人物

東北高校では1961年、2年生の時に夏の甲子園一塁手として出場[1]。2回戦で岐阜商に敗退。高校同期に日下正勝左翼手、村上宏通二塁手阪急)がいる。翌年の夏は東北大会準決勝に進出、リリーフとして登板するが、保原高に敗れ甲子園出場を逸した。

1963年大洋ホエールズに入団[1]。一時は高橋重行らとともに整理対象寸前であったが、当時の別所毅彦コーチにドロップボールを伝授され、現役維持。1965年4月にはこれを武器に一軍で初先発、阪神タイガースを完封し初勝利を飾る。同年は先発陣の一角として9勝を挙げた。その後も毎年30試合前後に登板するが、結果を残せず段々と登板機会を減らす。1973年太平洋クラブライオンズへ移籍、この年を最後に引退した[1]。オーバースローから重い球を投げ込み、球種はスライダー、カーブ、シュート、落ちる球であった。

1965年にはシーズン最多暴投(14暴投)のプロ野球タイ記録[1]1965年1967年まで3年連続でシーズン最多暴投を記録する。

1978年、岸和田リトルの栄川良秀監督から、抜群の素質を持つ小学生、清原和博の指導に関して相談を受ける。岸和田シニアの監督である及川が、特別コーチとして、当時の清原の弱点であった下半身強化のための特別な練習メニューを作り指導した。清原の中学入学後も、及川は岸和田シニアの監督として引き続き清原を指導した。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1965 大洋 39 27 3 1 0 9 10 -- -- .474 689 165.1 137 16 60 2 8 97 14 0 74 58 3.16 1.19
1966 36 12 1 0 0 3 7 -- -- .300 416 94.2 97 9 46 5 6 67 7 1 47 42 3.98 1.51
1967 28 18 0 0 0 3 10 -- -- .231 414 91.2 99 10 36 2 7 44 6 0 55 47 4.60 1.47
1968 31 19 0 0 0 2 5 -- -- .286 470 109.1 97 9 52 0 4 82 2 0 54 51 4.21 1.36
1969 22 10 1 1 0 2 4 -- -- .333 245 53.2 62 9 24 1 2 32 3 0 29 26 4.33 1.60
1970 11 5 0 0 0 2 2 -- -- .500 131 31.1 32 4 9 1 3 17 1 0 14 14 4.06 1.31
1972 1 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 14 3.0 4 0 2 0 0 3 0 0 2 2 6.00 2.00
1973 太平洋 4 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 19 5.0 5 1 1 0 0 3 0 0 3 3 5.40 1.20
通算:8年 172 92 5 2 0 21 39 -- -- .350 2398 554.0 533 58 230 11 30 345 33 1 278 243 3.95 1.38
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 44 (1963年 - 1966年)
  • 16 (1966年 - 1967年)
  • 44 (1968年 - 1972年)
  • 30 (1973年)

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、94ページ


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