「日系パラグアイ人」の版間の差分
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* [[岡林洋一]] - 元[[プロ野球選手]]。[[イグアス市]]育ち。ただし、日本移住後に日本に帰化しているため、現在は日本人である。 |
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* [[ミチオ高倉]] - 日本語新聞[[日系ジャーナル]]紙の編集長。 |
* [[ミチオ高倉]] - 日本語新聞[[日系ジャーナル]]紙の編集長。 |
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2017年10月26日 (木) 11:58時点における版
Japonés Paraguayo | |
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総人口 | |
10,321人 | |
居住地域 | |
アスンシオン、エンカルナシオン、イグアス市、エステ市、その他地方部 | |
言語 | |
スペイン語、日本語、グアラニー語 | |
宗教 | |
キリスト教、大乗仏教、仏教、神道 | |
関連する民族 | |
日本人、日系ブラジル人、日系アルゼンチン人、日系ウルグアイ人、日系ボリビア人、日系コロンビア人、日系ベネズエラ人、日系ペルー人、日系エクアドル人、日系チリ人、日系キューバ人、日系ドミニカ人、日系メキシコ人、日系アメリカ人、日系カナダ人 |
日系パラグアイ人(にっけいパラグアイじん、スペイン語: Japonés Paraguayo)とは日本人の血を引いたパラグアイの市民である。
歴史
日本人が最初に大規模な移住を行ったラテンアメリカの国家はブラジルだった。しかし、ブラジル政府は1930年代に日本人移民を禁止することを決定し、日本の土地会社はアスンシオン南東部に当時ブラジルに入国し、パラグアイに招待された日本人入国者による農業入植地を建設した。多くの日本人移住者が隣国のボリビアから入国し、1950年代に2つ以上の入植地がエンカルナシオン近郊に追って建設された。
第二次世界大戦が突如勃発すると、多くの日系パラグアイ人はドイツ系パラグアイ人とイタリア系パラグアイ人と共に否定的な描写で非難された。第二次世界大戦が終わるまで、多くの日本人難民が定着した。
1959年、日本政府とパラグアイ政府はパラグアイに移住者を送り続けることを定めた相互協定を結んだ。大多数のエスニック・マイノリティは都市生活を選択しがちだが、日本人は農業入植地にとどまり続け、1980年代にも8,000人の日系人が地方の入植地に定住していた。日系人定住者で都市部に居住し続けている者の数は2,321人である。1959年に締結された移住協定は1989年に効力無期限延長改定され、8万5000人の日本人移住者が受け入れ可能となっている。
長きに渡る日系人の居住にもかかわらず、日系パラグアイ人の人種間結婚は強く偏っているが、若干の日系パラグアイ人はスペイン系のユーラシア人と日系の家系となっている。1世の出身地は岩手県が最も多く、他の中南米移民の中で多数を占める沖縄県出身者の割合が極めて小さいのが特徴であるといえる。
2016年9月10日、パラグアイ日本人移住80周年式典が開かれ、日本からは眞子内親王が出席した[1]。
言語
1960年代後半から現在に至るまで、日系パラグアイ人はスペイン語、日本語、グアラニー語を話す。初期の定住者は学科をすべて日本語で教える並行教育システム(入植者たちは結果的に日本語教室の補修にこれは限定された)を整備した。本格的な入植が戦後になってからということもあり、一世、1・5世などネイティブな日本語を話す世代も健在な場合が、他地域と比較して多いのが特徴といえる。
宗教
大多数の日系パラグアイ人はカトリック教徒であり、残りは仏教徒と神道である。
著名な日系パラグアイ人
脚注
- ^ “眞子さま、パラグアイ日本人移住80周年式典に出席”. AFPBB News. (2016年9月10日)