「リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
9行目: | 9行目: | ||
日本では、『荒れ野の40年』(邦訳は[[岩波ブックレット]])と題する[[1985年]][[5月8日]]のドイツ連邦共和国[[連邦議会]]における[[演説]]により知られる。 |
日本では、『荒れ野の40年』(邦訳は[[岩波ブックレット]])と題する[[1985年]][[5月8日]]のドイツ連邦共和国[[連邦議会]]における[[演説]]により知られる。 |
||
==関連項目== |
==関連項目== |
||
*[[エルンスト・U・ワイツゼッカー]]( |
*[[エルンスト・U・ワイツゼッカー]](父) |
||
{{先代次代|[[ドイツの大統領]]|1984年-1994年|[[カール・カルステンス]]|[[ローマン・ヘルツォーク]]}} |
{{先代次代|[[ドイツの大統領]]|1984年-1994年|[[カール・カルステンス]]|[[ローマン・ヘルツォーク]]}} |
2006年6月28日 (水) 17:45時点における版
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker, 1920年4月15日 - )は、ドイツの政治家。キリスト教民主同盟(CDU)所属。西ベルリン市長(在任:1981年 - 1984年)、大統領(在任:1984年-1994年)。
1920年4月15日外交官のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(Ernst von Weizsäcker)の息子として、シュトゥットガルトに生まれる。兄弟には哲学者のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーがいる。父親の赴任先であった、スイスとデンマークで数年間過ごした後、1937年 イギリスに渡り、オックスフォード大学に留学。同大学で哲学、歴史学を学ぶ。さらにフランス・グルノーブル大学に移り学ぶ。第二次世界大戦の勃発により陸軍に入営。1945年オストプロイセンで負傷し、故郷のシュツットガルトに運ばれた。大尉で予備役に編入され終戦を迎えた。 その後、彼はゲッチンゲン大学で歴史学の研究を継続し、更に法律も学んだ。1950年と1953年に司法試験を受ける。1955年法学博士号を取得した。1953年マリアネ・フォン・クレッチマン(Marianne von Kretschmann)と結婚し、四人の子に恵まれた。
1954年キリスト教民主同盟(CDU)に入党する。1969年ドイツ連邦議会議員に当選する。1981年西ベルリン市長選挙に立候補し、当選する。
1984年カール・カルステンスの後継として、ドイツ連邦共和国大統領選挙にCDUから立候補し、連邦議会で選出された。ヴァイツゼッカーは、その演説によってドイツ内外に感銘を与えた。ヴァイツゼッカーは、全ての政治的党派を越えた威信を保持し、1989年大統領に再選された。大統領退任後も、国家の元老であるにもかかわらず、政治及びの慈善事業の第一線で活躍し続けている。ゲルハルト・シュレーダー政権によってドイツ連邦軍改革委員会議長に任命された。
日本では、『荒れ野の40年』(邦訳は岩波ブックレット)と題する1985年5月8日のドイツ連邦共和国連邦議会における演説により知られる。
関連項目
|