「板倉勝尚 (安中藩主)」の版間の差分
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2006年5月14日 (日) 05:26時点における版
板倉 勝尚(いたくら かつなお)は、上野安中藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | (1785年) |
死没 | (1820年) |
別名 | 鶴五郎。百助(幼名) |
諡号 | 甘雨 |
戒名 | 瑞光院張学源文 |
官位 | 従五位下、伊予守 |
藩 | 上野安中藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 父:板倉勝意 |
子 | 5男3女(板倉勝明。板倉勝殷) |
1785年、安中藩第3代藩主・勝意の子として生まれる。1805年、父の死去により後を継いだ。教養に造詣の深い藩主であり、1808年3月には藩校・造士館を創設する。また、勝尚自身の著作も「悼山吟草」や「水雲問答」など、多数残されている。藩政においては、藩財政再建のために倹約を行なっている。
1820年8月26日(または9月7日)に死去。享年36。後を子の勝明が継いだ。墓所:愛知県西尾市貝吹町の長円寺。