「中川智正」の版間の差分
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中学校時代の[同級生]]に[[THE BLUE HEARTS]]の[[甲本ヒロト]]、[[お笑いコンビ]]「[[浅草キッド]]」のメンバーの[[水道橋博士]]がいる。中川が指名手配された際、水道橋博士は「俺の同い年の中川智正ってもしかしてケツ(中川の中学時代のあだ名)のことか?」と考えとある同級生に聞いたところ「失礼なことを言うな!中川智正はケツではない!ボージサットバ・バジラディッサシだ!」と帰ってきたと度々ネタにしている。 |
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2012年12月23日 (日) 12:15時点における版
中川智正 | |
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誕生 |
1962年10月25日(62歳) 岡山県岡山市 |
ホーリーネーム | ヴァジラティッサ |
ステージ | 正悟師 |
教団での役職 | 法皇内庁長官 |
入信 | 1988年 |
関係した事件 |
坂本堤弁護士一家殺害事件 松本サリン事件 地下鉄サリン事件 |
判決 | 死刑 |
中川智正(なかがわ ともまさ、1962年10月25日 - )は、元オウム真理教幹部。岡山県出身。ホーリーネームはヴァジラ・ティッサ。麻原彰晃の主治医。
人物
1977年岡山大学教育学部附属中学校、1980年岡山県立岡山朝日高等学校、1988年京都府立医科大学医学部医学科卒業。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。自らも「自分は嫌いな人間に出合ったことはない」と公言するほどであった。1988年2月にオウム真理教に入信。オウムとの出会いは、医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場を覘いたことが発端となっている。入信直後も人格的な変化は見られなかった。
1988年5月に医師免許を取得し翌月から大阪鉄道病院に研修医として就職、消化器科の木本邦彦部長、吉田俊一などの若干の上司や同僚らと医療を行い、勤務態度は真面目だった。一年ほど勤めた後の1989年8月末、周囲の反対を押し切り退職し出家。院長や上司に強く慰留される事もなく粛々と退職した。逮捕後の手記では、人の死に際し、表向き沈痛な表情の上司や同僚らが、医局では何事もなかったように談笑する姿への失望が、退職とオウムへの傾倒の理由のひとつであった事を述べている。オウム入信後、看護師の恋人と出合った。
1995年8月22日医師免許取消処分。
オウム真理教での略歴
出家してわずか2ヵ月後の1989年11月2日夜、富士山総本部の麻原の部屋へ呼びつけられる。部屋には早川紀代秀、村井秀夫など主だった幹部が集まっていた。「坂本は教団批判をしている。あいつは許せない。殺さなければ。家に帰る途中でさらって注射を打つのはどうだ」と麻原に言われる。中川が坂本弁護士の名を聞いたのはこのときが初めてであった。翌朝、中川は5人の幹部とともに富士山総本部を出発。坂本弁護士を外で待ち受ける計画は失敗。報告を受けた麻原は家に押し入り、一家を殺害するよう指示(坂本堤弁護士一家殺害事件)。午前3時、中川は他の幹部のあとより坂本の自宅へ入る。先頭は新実智光と端本悟、中川は一番後ろだった。ドアは開いており、最後に入った中川はドアを閉めた際に音を立ててしまい、他の幹部に「静かにしろ」と叱られる。家族3人が川の字になって寝ていた。緊張で胸がどきどきしどおしだった。中川はまずはじめに成人男性の坂本の抵抗力を封じるために薬剤を注射。その後、1歳の長男龍彦にも手をかける。このとき坂本の妻に「せめて子供だけは」と懇願されるがその願いに耳を貸すことはなかった。そうこうするうちに龍彦は目を覚まして泣きだした。これに対し誰かになんとかしろと言われ、あやして宥める手段は講じず、座布団をかけたのち、口をふさぎ殺害した。3人の遺体を車に乗せ富士山総本部へ向かうが、その車中、中川は怖くて何がなんだか分からず目をつぶっていたが体の震えが止まらなかった。総本部に到着した時には呆然としていたが、麻原から平然と「顔色が悪いね」と労われる。この事件の功績を認められ、中川は麻原の側近に取り立てられ、その後の一連の事件に関わっていくことになる。坂本弁護士の事件はいちばんショックであったが、そのあとは断れば自分もそういう目に遭うのだと思うようになる[1]。
1990年の第39回衆議院議員総選挙には真理党から旧神奈川県第3区で立候補し落選。
教団が1994年に省庁制を採用すると、法皇内庁長官になった。1995年には地下鉄サリン事件の3日前の尊師通達で正悟師に昇格することになった。地下鉄サリン事件で使用されたサリンは、教団としてサリンの材料の殆どが証拠隠滅のために処分される中で、中川が密かに所持していた一部の原料から生成された。1995年5月17日に逮捕される。
公判
一連のオウム真理教事件で計11件25人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われている。これは麻原彰晃の27人、新実智光の26人に次ぐ死者数である。
1995年10月24日に開かれた第一審(岡田雄一裁判長)初公判では、ロッキード事件の田中角栄の第一審判決公判(3904人)を超える4158人の傍聴希望者が集まった。公判では当初、事件そのものへの証言を避けていたが、一審途中から供述を行った。
2003年10月29日の第一審で死刑判決、2007年7月13日の東京高等裁判所での控訴審(植村立郎裁判長)でも死刑判決を受けている。控訴審では、2組3名の医師が、入信・出家から各犯行時における彼の精神状態について意見書を提出した。それらによれば彼は入信直前から解離性精神障害ないし祈祷性精神病を発症していた。犯行時の責任能力については、「完全責任能力」「限定責任能力」と医師の判断が分かれた。高裁の判断は、彼が精神疾患にかかっていた可能性を認めたが、責任能力はあったとした。
責任能力の議論とは別に、中川の状態は文化人類学やシャマニズムでいう巫病の状態であったとの指摘もされている[2]。
その後、弁護団は上告したが、その上告趣意書の中で、オーストリア法医学会会長ヴァルテル・ラブル博士の意見書や絞首刑に関する過去の新聞記事を引用し、「絞首刑では死刑囚はすぐ死亡するわけではない」「首が切断される場合もある」などとして、絞首刑は憲法36条が禁止した残虐な刑罰である、首が切断された場合は絞首刑ではないから憲法31条に反するなどと主張した[3]。
2011年11月18日、最高裁第2小法廷は被告側の上告を棄却した[4]。同年12月8日に判決訂正申し立てを棄却決定により、死刑判決が確定した。
中川は、麻原の公判に証人として出廷した際、「サリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない」と麻原に対して叫んだ。また最終意見陳述では「一人の人間として、医師として、宗教者として失格だった」と謝罪した。[5]
その他
中学校時代の[同級生]]にTHE BLUE HEARTSの甲本ヒロト、お笑いコンビ「浅草キッド」のメンバーの水道橋博士がいる。中川が指名手配された際、水道橋博士は「俺の同い年の中川智正ってもしかしてケツ(中川の中学時代のあだ名)のことか?」と考えとある同級生に聞いたところ「失礼なことを言うな!中川智正はケツではない!ボージサットバ・バジラディッサシだ!」と帰ってきたと度々ネタにしている。
脚注
- ^ NHKスペシャル『深き闇の中から~オウム真理教 信者の供述』
- ^ 藤田庄市 「彼はなぜ凶悪犯罪を実行したのか ルポ オウム真理教・中川智正被告裁判」『世界』2004年4月号、岩波書店
- ^ 中川智正弁護団・ヴァルテル・ラブル 『絞首刑は残虐な刑罰ではないのか』 現代人文社、2011年
- ^ オウム中川被告、死刑確定へ 最高裁が上告棄却
- ^ オウム全公判終結