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2012年10月19日 (金) 12:29時点における版
西鉄軍 | |
---|---|
会社名 | 不明(解散時) |
創設 | 1941年 |
解散 | 1943年 |
所属リーグ | |
日本野球連盟 | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
特定本拠地なし(解散時) | |
収容人員 | 特定本拠地なしのため不明(解散時) |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
成績(タイトル以外) | |
球団組織 | |
オーナー | 不明(解散時) |
運営母体 | 西日本鉄道(解散時) |
監督 | 石本秀一(解散時) |
西鉄軍(にしてつぐん)は、1941年から1943年まで3年間活動した日本のプロ野球球団の一つであった。
球団の歴史
1941年、翼軍と名古屋金鯱軍(後の中日ドラゴンズとは無関係)が対等合併して、大洋軍(たいようぐん)(後の大洋ホエールズや太陽ロビンス、大陽ロビンスとは無関係)を結成した。1942年5月24日には後楽園球場で名古屋軍と延長28回を戦う延長戦を行っている。しかし、財政的に不安定であったため、1943年に福岡県の鉄道会社である西日本鉄道に譲渡され西鉄軍となった。
東京セネタースの創設の中心人物である貴族院議員の有馬頼寧(後に日本中央競馬会理事長になり、GIレースの有馬記念にその名が残っている)は久留米藩主の嫡系であったため、当時の家来筋にあたる石橋正二郎(ブリヂストン社長)や鏡山忠男(白木屋デパート社長)の援助を仰ぎ球団を九州地方に移したのだった。本拠地は九州地方であったが、当時はフランチャイズ制執行以前であったため、本拠地に関わらず公式戦は甲子園、西宮、後楽園の3球場を中心に行われ、九州地方での試合は行なわれなかった。なお、九州地方での日本プロ野球公式戦第1号は、戦後の1946年8月16日に熊本市水前寺野球場で行われたゴールドスター対近畿グレートリング戦である[1]。
1943年のシーズンオフにこの球団は解散した。
戦後、日本野球連盟に復帰願いを出すが、連盟が活動を停止した1944年まで存続していなかったことを理由に復帰を認められなかった。そのため、西日本鉄道は1950年の2リーグ分立時に西鉄クリッパースとしてパシフィック・リーグに加盟した。
なお、翼軍と名古屋金鯱軍の合併については、名目上は対等合併であり、大洋軍は翼軍の有馬頼寧と名古屋金鯱軍の大宮伍三郎による共同経営である。しかし、合併によって名古屋金鯱軍の親会社である名古屋新聞社が球団経営から撤退し、有馬と大宮による個人経営となっていることから、元々個人経営だった翼軍による名古屋金鯱軍の吸収合併という解釈が一般的である。
チームの特徴
投手では野口二郎、近藤貞雄、打者では濃人渉の名前が見受けられる。野口明、黒沢俊夫らが復帰するなど戦後に繋がっていく。
ユニフォームの変遷
- 大洋時代
- 「大」を模した丸マークの中に「洋」の文字を入れたデザインのものを使用していた。
- 西鉄時代
- この節の加筆が望まれています。
球団旗の変遷
この節の加筆が望まれています。 |
チーム成績・記録
- Aクラス・2回(1941年〜1942年)
- Bクラス・1回(1943年)
- 連続Aクラス入り最長記録・2年連続(1941年〜1942年)
- 連続Bクラス最長記録・1年(1943年)
- 最多勝 60勝(1942年)
- 最多敗 39敗(1942年)
- 最多引き分け 8分け(1943年)
- 最高勝率 .606(1942年)
- 最低勝率 .513(1943年)
その他の記録
- 最小ゲーム差 12.5ゲーム(1942年、1943年)
- 最大ゲーム差 15ゲーム(1941年)
- 最多本塁打 18本(1942年)
- 最小本塁打 7本(1943年)
- 最高打率 .198(1943年)
- 最低打率 .189(1941年)
- 最高防御率 1.33(1941年)
- 最低防御率 2.21(1943年)
歴代本拠地
当時はフランチャイズ制が導入されていなかったため、本拠地と言える球場は存在しない。
歴代監督
- ※1 ここから西鉄軍
脚注・出典
- ^ 週刊ベースボールの1978年7月10日号に於ける<プロ野球なんでも第1号>の90ページ。なお、北海道地方では1942年が最初であり、四国地方では1947年8月9日に徳島西の丸球場で行われた中日ドラゴンズ対太陽ロビンス戦が最初である。(2つとも同じページ)