「続豊治」の版間の差分
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その後も豊治は造船業を続けた。維新後の明治8年([[1875年]])には[[開拓使]]が西洋型船建造を奨励する方針を打ち出した為、豊治は再び西洋型帆船建造に取り組み、明治13年([[1880年]])に死去するまでの4年間に大小各種のスクーナー12隻を造った。 |
その後も豊治は造船業を続けた。維新後の明治8年([[1875年]])には[[開拓使]]が西洋型船建造を奨励する方針を打ち出した為、豊治は再び西洋型帆船建造に取り組み、明治13年([[1880年]])に死去するまでの4年間に大小各種のスクーナー12隻を造った。 |
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豊治の造った「箱館丸」は[[昭和]]63年([[1988年]])に復元され、[[函館市]] |
豊治の造った「箱館丸」は[[昭和]]63年([[1988年]])に復元され、[[函館市]]弁天町に展示されている。これは、同年の[[青函トンネル]][[青函トンネル開通記念博覧会|開通記念博覧会]]にあわせたものだが、博覧会の後に豊治の子孫が復元船を買い上げ、函館市に寄贈した。豊治の開拓に関わった功績から[[北海道神宮|北海道開拓神社]]に祀られている。 |
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== 参考文献 == |
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2012年6月22日 (金) 11:54時点における版
続 豊治(つづき とよじ、寛政10年(1798年)3月 - 明治13年(1880年)3月)は、日本の船大工。独自の調査を基に初期の西洋式帆船「箱館丸」を建造した。福士成豊は次男。
来歴
船大工の子として松前に生まれた豊治は、出生前に父が死亡していたために船大工続五郎治の養子となる。6歳の時に箱館に移住し造船技術を学ぶ。18歳から高田屋造船場にて勤めるが、造船場は天保4年(1833年)に閉鎖されてしまう。
これを期に豊治は船大工を辞め、仏壇師となる。
しかし、安政元年(1855年)、箱館に寄港していたアメリカ船の構造に興味を持った事から再び船大工となる。この時に豊治は箱館奉行より異国船応接方従僕に任命される。翌年には洋船の様式を取り入れた和洋折衷のボートを2隻建造する。この功績により船大工頭取に任ぜられ、「箱館丸」の建造に着手することになった。安政4年(1857年)7月に竣工した「箱館丸」は、西洋式帆船であるスクーナー(スクーネル)で、進水式には箱館奉行堀利煕が出席した。堀は「箱館丸」に乗って無事に江戸へ帰ることができ、この功により豊治は箱館御用船大工棟梁に任命される。続けて、改良型の「亀田丸」と和洋折衷型の「豊治丸」も建造した。
その後も豊治は造船業を続けた。維新後の明治8年(1875年)には開拓使が西洋型船建造を奨励する方針を打ち出した為、豊治は再び西洋型帆船建造に取り組み、明治13年(1880年)に死去するまでの4年間に大小各種のスクーナー12隻を造った。
豊治の造った「箱館丸」は昭和63年(1988年)に復元され、函館市弁天町に展示されている。これは、同年の青函トンネル開通記念博覧会にあわせたものだが、博覧会の後に豊治の子孫が復元船を買い上げ、函館市に寄贈した。豊治の開拓に関わった功績から北海道開拓神社に祀られている。
参考文献
- 函館市史編さん室(編) 『函館市史 通説編第1巻』デジタル版 函館市、1980年。