コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「東日流外三郡誌」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
24行目: 24行目:


== 擁護派 ==
== 擁護派 ==
現在も真作説を主張する論者および真作説に好意的な論者としては[[古田武彦]]、[[上岡龍太郎]]、[[笠谷和比古]]、[[古賀達也]]、[[水野孝夫]]、<ref>元偽書派、古田武彦の反論と[[多元王朝説]]を支持する内容で擁護派となる。</ref>[[竹下義朗]]、[[福永伸三]]、[[飛鳥昭雄]]、[[高橋良典]]、[[吉原賢二]]、[[北村泰一]]、[[内倉武久]]、[[松重楊江]]、[[平野貞夫]]、[[久慈力]]、[[竹田侑子]]、[[西村俊一]]、[[佐治芳彦]]、[[上城誠]]などがあげられる。この中には大学に職を得てい者や、有名な人物もいるが、
現在も真作説を主張する論者および真作説に好意的な論者としては[[古田武彦]]、[[上岡龍太郎]]、[[笠谷和比古]]、[[古賀達也]]、[[水野孝夫]]、<ref>元偽書派、古田武彦の反論と[[多元王朝説]]を支持する内容で擁護派となる。</ref>[[竹下義朗]]、[[福永伸三]]、[[飛鳥昭雄]]、[[高橋良典]]、[[吉原賢二]]、[[北村泰一]]、[[内倉武久]]、[[松重楊江]]、[[平野貞夫]]、[[久慈力]]、[[竹田侑子]]、[[西村俊一]]、[[佐治芳彦]]、[[上城誠]]などがあげられる。この中には大学に職を得てい者や、政治家、芸能人、評論家などの有名な人物もいるが、
偽書であるという定説をくつがえすに至っていない。
偽書であるという定説をくつがえすに至っていない。



2012年1月8日 (日) 01:54時点における版

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は、古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれているとされていた。いわゆる和田家文書を代表する文献。ただし、すでに偽書であることが判明している。単に偽作であるだけでなく、古文書学で定義される古文書の様式を持っていないという点でも厳密には古文書と言い難い。しかし関係者の間では「古文書」という呼び方が定着しているため、本項目もそれに従うことにする。

内容 

東日流外三郡誌は、青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に「天井裏から落ちてきた」古文書として1970年代に登場した。編者は秋田孝季と和田長三郎吉次(和田喜八郎の祖先と称される人物)とされ、数百冊にのぼるとされるその膨大な文書は、古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族文明が栄えていた、という内容で、有名な遮光器土偶の姿をした「荒覇吐(アラハバキ)」神も登場する。

同書によれば、十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地津軽北海道樺太など)に存在していた時の事実上の首都と捉えられ、満洲中国朝鮮欧州アラビア東南アジアとの貿易で栄え、欧州人向けのカトリック教会があり、中国人インド人・アラビア人欧州人などが多数の異人館を営んでいたとされる。しかし、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)または1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。

和田がこの文書群を青森県北津軽郡市浦村に提供し、市浦村は1975年(昭和50年)から1977年(昭和52年)にかけて、『市浦村史 資料編』(上中下の三部作)として刊行した。だが後にその内容をめぐって論争が相次ぎ、大反響を呼んだ。

和田による古文書の「発見」は、1949年頃から始まっている。ただし初期の古文書は地中から掘り出したとされていた(当時、和田家邸宅は藁ぶき屋根で、まだ天井裏がなかった)。1983年に北方新社版『東日流外三郡誌』の刊行が始まった際、「東日流外三郡誌」はそれまでに和田が発見した古文書の総称とされ、かつては地中から掘り出したとされていた文書もその中に加えられた。[1]その後の構想の拡大で、明確に「東日流外三郡誌」以外の題を冠した古文書(実際には偽書)も和田喜八郎の手元からぞくぞくと出てくるようになった。「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」「北鑑」「北斗抄」「丑寅日本記」「奥州風土記」などである。ちなみに「東日流外三郡誌」と題さないそれらの文書も上記の内容を共有している。そのため、和田喜八郎の手元から出た古文書には「東日流外三郡誌」と題する題さないを問わず、共通の用語や重複した説話が多々見られる。 結局、和田は1999年に世を去るまで約50年にわたってほぼ倦むことなく(本人の主張では天井裏にあった箱から)古文書を発見し続けた。  和田喜八郎没後、遺品として遺された文献は段ボール箱で20個分ほど、その大部分は刊本であり、肉筆によるものは巻物が25点、冊子本が46点だった(ただしこの冊子には実際に江戸時代に書かれた写本小説も含まれている)。[2]  しかし、その中には喜八郎の生前に活字化された内容と同じ『東日流外三郡誌』の底本は含まれていない(和田は論文盗用をめぐる裁判において『東日流外三郡誌』の底本は紛失したと主張)。喜八郎が生前に個人や自治体に事実上売却した「古文書」も多数あったため、それらをも含めた総数はつかみにくいのが現状である。

真偽論争 

東日流外三郡誌(およびその他の和田家文書)については、考古学的調査との矛盾(実際の十三湊の発掘調査では津波の痕跡は確認されておらず、また十三湊の最盛期は津波が襲ったとされる時期以降であったらしい)、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「光年」や「冥王星」「準星」など20世紀に入ってからの天文学用語が登場するなど、文書中にあらわれる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は1941年(昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎の物と完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある(「秋田孝季」とは何者なのか?)、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。これに対し、真書であると主張する者もおり、偽書派・真書派間で対立した。とくに、偽書派安本美典と真書派古田武彦の間では、雑誌、テレビ、論文雑誌等で論争が行われた。

しかしながら、原田実が真書派から偽書派へと転向するなど、偽書であるという説のほうが有力であった。一番の問題は、和田喜八郎が公開した資料は、あくまで和田喜八郎の祖父である末吉による写本(と喜八郎が主張したもの)であり、肝心の「原本」の公開を拒んでいたことであった。

1999年(平成11年)に和田喜八郎が死去した後、和田家は偽書派により綿密に調査がなされた。この結果、天井裏に古文書を隠すスペースなど確かに存在せず(後日公開された和田家内部写真[3]によれば、膨大な文書を収納できるようなスペースはなかった)、建物内には原本がどこからも発見されなかったうえ、逆に紙を古紙に偽造する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。青森県教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』[4]には、「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。

2007年、古田武彦は東日流外三郡誌の「寛政原本」を発見したと発表、2008年には電子出版された[5]。しかしこれについて原田実は、その筆跡はことごとく従来の和田家文書と同じであると主張している[6]。「寛政原本」はすでに活字化された東日流外三郡誌のいずれとも対応しておらず、その意味では(活字化されたものの)テキストに対する原本とはいえない。

擁護派

現在も真作説を主張する論者および真作説に好意的な論者としては古田武彦上岡龍太郎笠谷和比古古賀達也水野孝夫[7]竹下義朗福永伸三飛鳥昭雄高橋良典吉原賢二北村泰一内倉武久松重楊江平野貞夫久慈力竹田侑子西村俊一佐治芳彦上城誠などがあげられる。この中には大学に職を得ている者や、政治家、芸能人、評論家などの有名な人物もいるが、 偽書であるという定説をくつがえすに至っていない。

社会に与えた影響

その反国家、反権力、反中央的内容により、日本原住民論の影響下にあった日本の新左翼の絶大な支持を得た。元ブント活動家の武田崇元は、逸早くこの文書に着目、「霊的ボルシェヴィキ」育成のために、盛んに宣伝した。

この風潮に一番影響を受けたのがオウム真理教である。オウムに影響を与えたのは一般に五島勉ノストラダムスの大予言シリーズだと言われているが、東日流外三郡誌も多大な影響を与えていたのである。麻原彰晃オカルト雑誌ムーにて東日流外三郡誌を賞賛し、同書を根拠にして天皇家に代わる新たな支配者の出現を「予言」する文章を掲載していた。そして次第に「オウム帝国」の樹立を企むに至り、地下鉄サリン事件を始めとする一連のテロ行為に繋がっていったのである。[要出典]

フィクション作品への登場

内田康夫による『十三の冥府』(2004年発表)では、「東日流外三郡誌」をモデルとした「都賀留三郡史」が登場している。内容は「都賀留三郡史」を偽造した神主の周辺人物が次々と怪死する連続殺人事件で、「都賀留三郡史」を取材に訪れた浅見光彦が真相を解明するものである。

脚注

  1. ^ 藤本光幸「『東日流外三郡誌』発刊にあたって」北方新社版『東日流外三郡誌』第1巻・1983年
  2. ^ 竹田侑子「和田家文書報告(1)」『北奥文化』第23号、2002年11月
  3. ^ 東奥日報 2003年(平成15年)2月25日付夕刊1面。斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社、2006年12月、311ページ頁。ISBN 4-404-03436-9 
  4. ^ 『十三湊遺跡発掘調査報告書』第1分冊pp.63 第Ⅱ章 遺跡の環境 第4節 文献史料から見た十三湊と安藤氏 (2)十三湊関係の文献史料
  5. ^ 古田武彦、竹田侑子『東日流[内・外]三郡誌 -ついに出現、幻の寛政原本!-』オンブック、2008年6月。ISBN 978-4-902950-77-9http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0069 
  6. ^ 原田実「寛政? 歓声? 完成? いえ、単なる陥穽」『と学会年鑑AQUA』楽工社、2008年3月、pp. 133-140頁。ISBN 978-4-903063-19-5http://www.rakkousha.co.jp/books/isbn19-5-togakkainenkanakua.html 
  7. ^ 元偽書派、古田武彦の反論と多元王朝説を支持する内容で擁護派となる。

参考文献

関連項目

外部リンク

');