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2010年5月3日 (月) 16:57時点における版
奥貫友山(おくぬき ゆうざん、1707年(宝永4年) - 1787年(天明7年))は、江戸時代の儒者・教育者 慈善家。
略歴
宝永4年(1707年)、武蔵国久下戸村(現埼玉県川越市)に奥貫正清の子として生まれる。名は正卿。字は伯雅。通称は五平次。
久下戸村の名主を勤めるかたわら幕府の儒官・成島錦江に学び、細井平洲、青木昆陽と交友した。村に帰り明和元年に、私塾を開設、教育を行う。
寛保2年(1742年)8月、関東一円に台風がもたらした大風雨があり、荒川・利根川などの河川が決壊氾濫して江戸時代最大の大洪水が発生した(寛保の大洪水)。川越藩領内でも被害は28村に及び、被災民の数は近郊を含めると10万人を超えた、という。
友山は率先して救助にあたり、米25俵、麦70石、雑穀266石等の自己私財すべてを農民に拠出、自ら粥を作って振る舞い続け、1万6000人の命を救ったという。さらに自らの田畑を江戸商人に質入し、その金で食糧を買い続け一年に渡って窮民を救援し続けた。最終的に48ヶ村の10万6千名の命を救った、とされる。さらに自費で植林(水塚)を続けた。また江戸に出て師である成島錦江を通じて幕府に防災策を言上した。川越城主秋元涼朝は狩野周信筆の鷹絵1幅を贈り賞した。
その後、明和元年(1764年)、武蔵国から信濃国一帯に発生した大規模な一揆(伝馬騒動)では、村で奥貫家だけが打ち壊しを免れたと伝える。 友山は土地や年貢関係の帳簿類、米や雑穀類の値段表など、貴重な史料を今に残した。奥貫家は現存し、県指定の旧跡となっている。 また「大水記」を記し、そこには防災の教訓が多く含まれ、戦前の修身の教科書や今日の防災関連書でも引用されている。
平生節倹をつとめ、時あるに臨みて家財をつくして公衆の救難に致す、陰徳あるもの何ぞ陽報あらざらん
飯を炊くには、タライへ土をぬり、其の上にて炊き候事上策なり、水の浅深に従ひ浮沈して水の入る事なし
木を植えるなら榛の木、鳥をかうなら鶏を飼え