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「幸福」の版間の差分

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* 第2グループには、面倒に思えたこと。
* 第2グループには、面倒に思えたこと。
* 第3グループには、起こった出来事。
* 第3グループには、起こった出来事。
この実験を開始して9週間後、満足度が最も高かったのは、第一グループ、すなわち最近'''1週間のうちに感謝したこと'''、を記録しつづけたグループであった。このグループの人々は他のグループに比べて、健康状態も良好であった(でありつづけた)という結果が出た<ref>『幸せを科学する』新曜社</ref>。 
この実験を開始して9週間後、'''満足度が最も高かったのは'''、第一グループ、すなわち最近1週間のうちに'''感謝したことを記録しつづけたグループ'''であった。このグループの人々は他のグループに比べて、健康状態も良好であった(でありつづけた)という結果が出た<ref>『幸せを科学する』新曜社</ref>。 
このような手法を'''感謝介入法'''という。
このような手法を'''感謝介入法'''という。


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*片方のグループの人には、誰かに[[親切]]を行い、それを記録するように指示する。
*片方のグループの人には、誰かに[[親切]]を行い、それを記録するように指示する。
*もう片方のグループの人には、特に親切はさせない。
*もう片方のグループの人には、特に親切はさせない。
これを'''親切介入法'''と呼ぶ。
この介入の1ヶ月前と1ヵ月後の幸福感を調査したところ、誰かに親切をしたグループのほうが幸福感が高かった<ref>『幸せを科学する』新曜社</ref>。
この介入の1ヶ月前と1ヵ月後の幸福感を調査したところ、'''誰かに親切をし、それを記録したグループのほうが幸福感が高かった'''<ref>『幸せを科学する』新曜社</ref>。





2010年3月19日 (金) 02:45時点における版

笑顔
充足状態において、人間は特有の表情を見せる

幸福(こうふく、英:Happiness)とは、心が満ち足りていること[1]しあわせとも。

反語は不幸(Unhapiness)[2]

概要

人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。

幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、「幸福論」(Eudaemonics)と呼ばれている。

本記事ではまず、哲学者や思想家や宗教家などによって幸福についてどのような考え方が提示されてきたのか見てゆくことにし、その後、近年の統計的、精神医学的な調査・研究で明らかになった知見なども紹介することにする。

哲学、思想、宗教における考え

ソクラテス

ソクラテスは、「生きること」以上に「よく生きること」を重視し、正しく知ることが重要であると説いた。

アリストテレス

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、 幸福とはだれもが求める目標である、その特徴は、それが究極目標であること、つまりもはやそれが何かほかのものの手段にはなりえない、という点にある、と述べた[3]。 つまり幸福は、それ自体のために求められる最高善であるとし、自足的で永続的な状態である、と見なした[4]。幸福が最高目標、永続的であるのに対して、実生活の具体的な活動の過程で得られる快は安定性も永続性も欠いている、とした[5]。 そして幸福主義をとなえた。

またアリストテレスは、幸福とは、政治を実践し、または人間のプシュケー(=心、霊魂)の固有の形相である理性を発展させることであるとした。

ヘレニズム期の考え方

ヘレニズム期の哲学においては、幸福について考えが分かれる二つの学派があったとされる。ストア派エピクロス派である。

ストア派

ストア派は、宇宙全体を貫くロゴスとの合一に幸福の理想が求められ[6]、理性に従い欲望を制御してどんなことがあっても動じない状態、即ちアパテイアが幸福であるとした。

ストア派は理性に従いを高めることが幸福であるとする一種の主知主義の立場である、ともされる。

エピクロス派

エピクロス派は「快楽を得ることが幸福であるとした」などとされ、快楽主義などと表現される。ただし、エピクロス自身が言っていたことは、現代人がつい思い描いてしまうような、単純に享楽を求めるような"快楽主義"ではない。

エピクロス自身は、快を「感覚的な快」と、「精神的な快」に分けて考えていた[7]。前者は生き物に共通の反応ではあるが、人間あるいは賢者にとっての幸福というのは、精神的な快であるとし、アタラクシアである、としていたのである[8]。アタラクシアとは、静かな心の平安、あらゆる苦痛と混乱を免れた精神の安定した境地のことである。


ヘレニズム期の幸福論を考察する時に、両派は対比され、一般にストア派は「禁欲主義」、エピクロス派は「快楽主義」と呼ばれ、てはいるが[9]、このように静かな心の穏やかさを目指した面では軌を一にしている。「これら(両派)はいずれも、外部とのかかわりを可能なかぎり断って、もっぱら内面における安定ないし自足のうちに幸福の実現の可能性を求める立場であった[10]」とも。欲望をどのように扱うかが、幸福論の中心的な課題であったとも。「この点では、苦しみの源である執着心(渇愛)から解放された涅槃寂静の境地に悟りの境地を求めた仏教の発想とも通じ合うところがある[11]」ともされる。

キリスト教

キリスト教が普及したヨーロッパの中世においては、本来の幸福は個々の人間の努力によってどうにかできるようなものではなく、神からの恵み(恩寵)によってのみ真の至福は可能になる、と説かれた[12]


ブレーズ・パスカル

ブレーズ・パスカルは『パンセ』において幸福にも言及している。

誰もが幸福になりたいと思っている。そこに例外はない.....。これこそが、首を吊ろうとする人をもふくめて、あらゆる人間のあらゆる行為の動機である。(『パンセ』425)[13]

絶えず幸福になろうとしている状態にあるかぎり、われわれはけっして幸福になることがない。(『パンセ』172)[14]

[15]</ref>

イギリスの功利主義

近代に入り、キリスト教のものではない世俗的な価値観が現れると、イギリスにおいては、感性的な快のもたらす満足感が幸福なのだとする発想が芽生え[16]、これが後に功利主義につながってゆくことになった[17]

ベンサムは、個人にとっての幸福は快が得られ苦痛が欠如した状態にある、と見なす快楽説を採用し、個々人の私的善の総和を最大幸福と見なし、「最大多数の最大幸福」の実現を社会的行為の基盤と見なした[18]

ただし、この考え方には修正が必要だとしたのがミルである。ミルは、何が快であり苦であるかには個人差があると考え、快楽計算に質的観点を導入してみせた[19]。ミルは「太った豚よりも痩せたソクラテスであれ」という言葉でも知られている[20]

マズロー

欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズロー (1908年 - 1970年)の説明では、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために「絶対的幸福というものは存在しない」などともされた。

ヴィクトール・フランクルの思想

ヴィクトール・フランクルは人間が実現できる価値を3つに分類している。

  • 創造価値 善や美を作り出す。
  • 体験価値 善や美を享受する。
  • 態度価値 人間らしい尊厳ある態度をとる。

創造価値、体験価値の実現は一般的に言われる幸福な状態である。最後の態度価値は一般的には幸福と言い難い悲惨な状態のなかでも実現できる価値であり、「いわゆる幸福」だけが人間にとっての価値ではないことを意味している。

新宮秀夫による説明

新宮秀夫は幸福とは満足、安心、豊かさなど人の願うことの中そのものにあるのではなく、それを得ようとしたり持続させようとする緊張感の中に幸福があるとする。そして幸福についての考え方を、複雑性に応じて四つの段階に分類する。数字が上の階は下より高級ということではなく、下の階の考え方を前提とすることにより成り立っているということである。

  • 第一のステージ 富、名声、恋、スポーツ、食事などを通じて快楽を得ることに幸福を感じる。
  • 第二のステージ 獲得した快楽を永続させようとするいとなみの中に幸福がある。
  • 第三のステージ 苦しみや悲しみを克服するいとなみの中に幸福がある。
  • 第四のステージ 克服できない苦しみの中に、幸福がある。


その他の幸福論の主な著作

  • エピクテトス『語録』 己の力の及ぶものと及ばないものを識別し、自己抑制をもって生きることを説く。
  • スピノザ『エチカ』 物事を永遠の相のもとで見ることが幸福(神に対する知的愛)への道であるとする。
  • ショーペンハウエル『幸福について』 目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得るべきである。世俗的な幸福の源泉を人のあり方・人の有するもの・人の印象の与え方に大別した上、肝心なのは「人のあり方」であるとする。『意志と表象としての世界第四部』 自他の区別を去った意志の否定を説く。
  • アラン『幸福論』 健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説く。
  • ラッセル『幸福論』 己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧める。
  • カール・ヒルティ『幸福論』 神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論。
  • 福田恆存『私の幸福論』 不公正な世の現実を見据え、弱点を弱点と認識した上でとらわれなく生きること。望むものを手に入れるために戦い、敗北しても悔いないこと。

中国や日本の格言等における説明

棺を蓋いて事定まる」(『晋書』・劉毅伝)という格言は、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある、ということを述べている。なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(意:煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らないが、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったかが正確には判じ難い。)という件もあるという。

例えば、ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。

縒り合せた綱

故事を引用すれば、古代中国の『淮南子』人間訓に「人生万事塞翁が馬」(元の僧、熙晦機の漢詩「人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠……」の冒頭。)がある。「塞翁が馬」とも称されるこの話には、人の幸不幸は縒って作ったの目のように、交互に訪れる(「禍福は糾える縄の如し」・幸も不幸も交互に訪れるため片方ばかりは続かない)などの類似する故事・説話・慣用句なども数多い。

人生万事塞翁が馬:ある塞(城塞)のほとりに、老人とその息子とが暮らしていた。ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、当の老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と、意にも介さない。間も無く、逃げ出した馬は立派な馬を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったために周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり意に介さない。間も無く、息子がこの馬から落ち脚が不自由となってしまったため周囲は同情したが、それでも老人は意に介さない。その後、戦争が始まって村の若者は皆に徴収され、ほとんどが戦死してしまったが、息子は脚が不自由であるため村に残った。こうして、老人と息子は共に生き長らえ暮らしたという話である。


近年の様々な見解

客観に外形的様式として所定の状態があるわけではない。また、幸福度を数値化(定量化)することは非常に困難である。例えば、本人以外の誰かには “幸福ではない”と見える状況にいるとしても、その評価はあくまで観察者の主観におけるものであり、その状況を当人が幸福だと感じていれば、その検証は非常に困難である[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない。

この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、やはり「楽しい」「幸福である」という状態はその主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても、みずからの「心のありかた」を意識的に選び取ることよって見出すことができるとされている。

統計的、精神医学的調査・研究

[21]

1980年代から幸福感に関する心理学的・精神医学的な研究が盛んになってきた。[22]

世界各地の110万人のデータを検討したマイヤースらの1996年の研究によると、2割の人が「とても幸福である」と答え、約7割の人が「かなり幸福」あるいは「それ以上」と答えていた。

ある程度以上裕福な先進諸国においては、個人の経済的裕福さと幸福感との間には関連性が見られなくなる[23]。 統計学的に見て、幸福感に大きな影響を与えているのは、婚姻状況[24](未婚/既婚/離婚の違い)および信仰心であった(注. ここでいう「信仰心」とは、主としてキリスト教の信仰のことである)。世界14ヶ国、16万人余りを対象とした国際研究では、幸福であると答えた人の率は、信仰心があつく、礼拝や儀式にもよく参加する人で高かった[25]

様々な統計的データによって明らかになったことは、幸福感の基線を決めるのは、環境の客観的な条件ではなく、個々人の内的特徴(「信仰心」や「ものの考え方」など)である、ということである[26]

また、幸福感を持っている人に共通する内的な特徴は4つある、ともいわれる。自分自身が好きであること、主体的に生きているという感覚を持てていること、楽観的であること、外向的であること[27]

また、人は価値のある活動に積極的に参加し、自身のゴールをめざして前進するときに、より多くの幸福を感じることができる[28]

感謝介入法と親切介入法

感謝介入法

人を3つのグループに分け、それぞれのグループの各人に次のような課題を与えて記録させる。

  • 第1グループには、最近1週間のうちに感謝したこと。
  • 第2グループには、面倒に思えたこと。
  • 第3グループには、起こった出来事。

この実験を開始して9週間後、満足度が最も高かったのは、第一グループ、すなわち最近1週間のうちに感謝したことを記録しつづけたグループであった。このグループの人々は他のグループに比べて、健康状態も良好であった(でありつづけた)という結果が出た[29]。  このような手法を感謝介入法という。

親切介入法

人を2つのグループに分け、

  • 片方のグループの人には、誰かに親切を行い、それを記録するように指示する。
  • もう片方のグループの人には、特に親切はさせない。

これを親切介入法と呼ぶ。 この介入の1ヶ月前と1ヵ月後の幸福感を調査したところ、誰かに親切をし、それを記録したグループのほうが幸福感が高かった[30]


「感謝しましょう」「ひとに親切にしましょう」といった、古来多くの宗教や道徳などで説かれていることには、深い道理があり、実際に人間に幸福をもたらしていることが、実証的な科学の方法でも証明されるようになってきているのである。[31]

幸福と法律

なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。

幸福感の欠如と病理

ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。また精神病の上では幸福感が得られなくなる症状もあり、発症者には適切な治療が必要である。

うつ病による問題

幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は絶望感で悶絶するもので、患者自身にとってうつ病は他に比較できない苦痛を発生させ、何ごとに対しても思考することが困難な状態に陥り、極度の絶望感に苛まされることになる。この状態では無意味に苦しいだけなので、現代医学の視点からすれば一刻も早く心療内科精神科に駆け込み、適切な治療を受けるべきである。

うつ病は現代医学において治療法が確立されていることもあり、投薬などの治療によって回復後に本人自身が思い返して「一体何故あんなに思い詰めていたのだろうか」と呆れる程にドラスティックに回復する病気でもある。また同症の発症は「心の風邪」という形容詞が示すように、「誰でも発症する恐れがあるが、放置すれば命にかかわることもある(万病の元)」でもあるため、早めの治療こそが有効といえよう。

ところが、本人が病気と認めず治療もせずに絶望感のなかで頑張り過ぎた挙句自殺してしまうケースも、日本を含む先進諸国を中心に社会問題となっている。

参考文献

  • 『哲学 キーワード事典』新書館、2004
  • 大石茂宏『幸せを科学する[32]』新曜社

脚注 出典

  1. ^ 広辞苑第五版 p.916
  2. ^ goo辞書「幸福」[1]
  3. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  4. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  5. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  6. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  7. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  8. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  9. ^ ただしこれら古代哲学における禁欲主義、快楽主義という語は現代の通俗的用法とは必ずしも合致しないことは注意すべきである。
  10. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  11. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  12. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  13. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  14. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  15. ^ 現代フランスの代表的モラリストのひとりコント=スポンヴィルは次のように説いた。「あるがままのものを認識し、できることを意志し、起こることを愛すること」(『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241)
  16. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  17. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  18. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  19. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  20. ^ 『哲学 キーワード事典』新書館、p.240-241
  21. ^ 出典:『こころと体の対話 精神免疫学の世界』神庭重信 ISBN 4-16-660041-9 p.86~「なにが幸福感を決めるのか」 (著者は慶應義塾大学医学部および米国・メイヨクリニック出身、現 山梨医科大学教授)
  22. ^ 『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.86
  23. ^ 1990年、イングルハートによる分析。(『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.86)
  24. ^ 1980~1990年にシカゴ大学によって行われた調査(『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.87)
  25. ^ ギャロップ社による調査。(『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.86)
  26. ^ (『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.91)
  27. ^ (『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.90)
  28. ^ (『こころと体の対話 精神免疫学の世界』p.88)
  29. ^ 『幸せを科学する』新曜社
  30. ^ 『幸せを科学する』新曜社
  31. ^ 『幸せを科学する』新曜社
  32. ^ 書籍名が某団体の名称といくらか似ているが、全く無関係である。学者による学術書。

関連項目

四つ葉のクローバーを見つけると幸福になれるという伝説がある

関連書籍

外部聯結

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