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「ノート:十和田湖町」の版間の差分

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その元となる境界線は、十和田湖から流れる奥入瀬川となっている。
その元となる境界線は、十和田湖から流れる奥入瀬川となっている。
明治時代の廃藩置県により、3地区は斗南藩に編入となる。
明治時代の廃藩置県により、3地区は斗南藩に編入となる。
明治12年には独立し、「法量村・奥瀬村・沢田村」となる。
明治12年には独立し'''、「法量村・奥瀬村・沢田村」'''となる。
明治22年町村制度施行後、3つの村の頭文字をとって、「法奥沢村」と名づけられた。
明治22年町村制度施行後、3つの村の頭文字をとって、'''「法奥沢村」'''と名づけられた。
その後、昭和9年「十和田村」・昭和30年「十和田町」が誕生した。
その後、昭和9年「'''十和田村」'''・昭和30年'''「十和田町」'''が誕生した。
昭和50年4月には、町制施行20周年を迎え、「十和田湖町」となった。
昭和50年4月には、町制施行20周年を迎え、'''「十和田湖町」'''となった。
2004年12月31日をもって、十和田湖町の歴史を閉じ、
2004年12月31日をもって、十和田湖町の歴史を閉じ、
翌、2005年1月1日をもって、十和田市となる。
翌、2005年1月1日をもって、十和田市となる。

2005年8月6日 (土) 01:33時点における版

十和田湖町は、大きく3つに地域に区分され、法量地区・奥瀬地区・沢田地区に分かれている。 1735年には、法量地区は七戸代官所、奥瀬・沢田地区は五戸代官所の統治下にあった。 その元となる境界線は、十和田湖から流れる奥入瀬川となっている。 明治時代の廃藩置県により、3地区は斗南藩に編入となる。 明治12年には独立し、「法量村・奥瀬村・沢田村」となる。 明治22年町村制度施行後、3つの村の頭文字をとって、「法奥沢村」と名づけられた。 その後、昭和9年「十和田村」・昭和30年「十和田町」が誕生した。 昭和50年4月には、町制施行20周年を迎え、「十和田湖町」となった。 2004年12月31日をもって、十和田湖町の歴史を閉じ、 翌、2005年1月1日をもって、十和田市となる。

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