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「上原正吉」の版間の差分

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==来歴・人物==
==来歴・人物==
[[埼玉県]][[北葛飾郡]][[杉戸町]]に、小学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京、[[1914年]]錦城商業学校を卒業する。数箇所の職場を転々とした後、翌[[1915年]]に、当時社員7人の「[[大正製薬所]]」新聞広告を見て応募し、創業者である[[石井絹治郎]]にその素質を見出され就職する。正吉は創業者と思われがちだが実は違う。創業者は[[石井絹治郎]]である。入社後、住み込みの丁稚奉公をしながら薬学の知識を得るため創業者[[石井絹治郎]]の母校である[[明治薬学校]](現・[[明治薬科大学]])夜間部で学ぶなど努力を重ね([[1918年]]卒業)、[[石井絹治郎]]の懐刀として働きまわる。[[1928年]]に株式会社に改組されると取締役に抜擢され、戦後の[[1946年]]社長に就任する。社長となったのは、[[石井絹治郎]]が死んでから3年後だった。社長に就任する際、株で半ば強引に乗っ取り、その後、当時多数勤務していた創業者一族である石井家の親族を大幅に解雇するなど、創業者一族である石井家とその親戚筋とは確執がある。
[[埼玉県]][[北葛飾郡]][[杉戸町]]に、小学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京、[[1914年]]錦城商業学校を卒業する。数箇所の職場を転々とした後、翌[[1915年]]に、当時社員7人の「[[大正製薬所]]」新聞広告を見て応募し、創業者である[[石井絹治郎]]にその素質を見出され就職する。正吉は創業者と思われがちだが実は違う。創業者は[[石井絹治郎]]である。入社後、住み込みの丁稚奉公をしながら薬学の知識を得るため創業者[[石井絹治郎]]の母校である[[明治薬学校]](現・[[明治薬科大学]])夜間部で学([[1918年]]卒業)、[[石井絹治郎]]の懐刀として働きまわる。[[1928年]]に株式会社に改組されると取締役に抜擢され、戦後の[[1946年]]社長に就任する。社長となったのは、[[石井絹治郎]]が死んでから3年後だった。社長に就任する際、株で半ば強引に乗っ取り、その後、当時多数勤務していた創業者一族である石井家の親族を大幅に解雇するなど、創業者一族である石井家とその親戚筋とは確執がある。




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{{先代次代|科学技術庁長官|([[1965年]]~[[1966年]])|[[愛知揆一]]|[[有田喜一]]}}
{{先代次代|科学技術庁長官|([[1965年]]~[[1966年]])|[[愛知揆一]]|[[有田喜一]]}}



== 関連事項 ==
== 関連事項 ==
*[[石井絹治郎]]<br />
*[[大正製薬]]<br />
*[[大正製薬]]<br />
*[[明治薬科大学]]<br />
*[[明治薬科大学]]<br />

*[[石井絹治郎]]


[[Category:日本の実業家|うえはらしようきち]]
[[Category:日本の実業家|うえはらしようきち]]

2009年5月29日 (金) 13:20時点における版

上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年12月26日1983年3月12日)は、昭和期の実業家・政治家(自由民主党参議院議員)。若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として動き回り、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年1966年1976年1977年1979年の計6回トップを占めた。甥は前埼玉県知事の土屋義彦

来歴・人物

埼玉県北葛飾郡杉戸町に、小学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京、1914年錦城商業学校を卒業する。数箇所の職場を転々とした後、翌1915年に、当時社員7人の「大正製薬所」新聞広告を見て応募し、創業者である石井絹治郎にその素質を見出され就職する。正吉は創業者と思われがちだが実は違う。創業者は石井絹治郎である。入社後、住み込みの丁稚奉公をしながら薬学の知識を得るため創業者石井絹治郎の母校である明治薬学校(現・明治薬科大学)夜間部で学び(1918年卒業)、石井絹治郎の懐刀として働きまわる。1928年に株式会社に改組されると取締役に抜擢され、戦後の1946年社長に就任する。社長となったのは、石井絹治郎が死んでから3年後だった。社長に就任する際、株で半ば強引に乗っ取り、その後、当時多数勤務していた創業者一族である石井家の親族を大幅に解雇するなど、創業者一族である石井家とその親戚筋とは確執がある。


以後、「ゴッドマザー」と称された小枝夫人(後の名誉会長)とともに、お互い庶民の出であったため、閨閥戦略で同族経営に邁進する。「飲まず吸わず遊ばず」をモットーとして無借金経営に徹しながら、問屋を通さない直販体制の整備、栄養ドリンク「リポビタンD」の大ヒットにより、同社を高収益の大企業に成長させた。1973年に社長を長男の昭二に譲り会長となる。

また、1950年第2回参議院議員通常選挙日本自由党公認で埼玉選挙区から立候補し当選、以後連続5回当選を果たした。保守合同後は福田赳夫派に所属、1965年第1次佐藤内閣第1次改造内閣科学技術庁長官として入閣した他、自由民主党両院議員会長(1974年1980年)、裁判官弾劾裁判所裁判長を歴任した。

大の演歌好きとしても有名であり、『演歌の花道』(テレビ東京系)は上原の肝いりにより、大正製薬の一社提供番組として制作されたことで知られる。

1975年勲一等旭日大綬章受章。1983年3月12日死去。享年85。

先代
愛知揆一
科学技術庁長官
1965年1966年
次代
有田喜一


関連事項

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