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{{アニメーター
| 名前 = 松原 秀典
| ふりがな = まつばら ひでのり
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| 画像コメント =
| 出生地 = {{JPN}}・[[富山県]][[高岡市]]
| 生年 = 1965
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2008年9月22日 (月) 09:30時点における版

松原 秀典まつばら ひでのり1965年 - )は富山県高岡市出身の男性アニメーターキャラクターデザイナー。元・ガイナックス所属。

主な代表作に『サクラ大戦』『ああっ女神さまっ』など。ガイナックスでアニメーターとして頭角を現し、キャラクターデザイナーとしてその才能を開花させた。ガイナックス退社後も様々な作品にキャラクターデザイン作画監督原画などで参加する。現在はゲーム関係の仕事にも携わっている。

2001年8月には初の個展「サクラ大戦松原秀典原画展」を、渋谷で開催した。

松原秀典の絵はアートコレクションハウスで美術品としても取引されている。

活動について

富山県で高校を卒業した松原は、アニメーターになるために上京した。

画集「松原秀典アートワークス」に載せている藤島康介との対談によると、デザインのほうに興味があって、最初には進路もデザインの方に決めていたらしい。しかし、以前から持っていたアニメーションに参加したいという願いを叶えるためにアニメーション専門学校へ進学した。本人の話によると、そんなに助けには成れなかったらしい。

余談で、この対談にて松原は、彼が最初に志望していた職業は公務員だったと言っている。

いくつの会社で動画マンとして参加していた1985年、『ダーティペア』の原画でデビューを果たした。だが、大きい注目は受けなかった。以後、『トップをねらえ!』に参加したことから貞本義行庵野秀明らの新生会社ガイナックスに所属することになった。

ふしぎの海のナディア』、『新世紀エヴァンゲリオン』などの大作に参加し、アニメーターとして頭角を現せ、キャラクターデザイナーとしてその才能を開花させた。だが、『新世紀エヴァンゲリオン』の作業終了と同時にガイナックスを退社した。

退社以後からは、フリーアニメーターとして活動した。一時にスタジオゑびすに所属していたが、現在はフリー活動に戻っている。

人間関係

アニメーション監督の合田浩章とは1988年の『トップをねらえ!』からの友人であり、今までも『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』や『ああっ女神さまっ 闘う翼』の様に互いの代表作に参加するなど交流を続けている。

漫画家の藤島康介との仕事もアニメ・ゲームなどの方面で、1993年から現在まで続けている。『ああっ女神さまっ』以外にも、『サクラ大戦』、『ガングレイヴ』などの作品に共に参加している。松原の画集『松原秀典アートワークス』の巻末には、松原と藤島の対談が収録されている。

ガイナックス時代の先輩アニメーターである貞本義行は、デビュー直後の松原の実力を認めた最初の人物である。

1996年、ガイナックスを退社してフリーとなった松原だったが、退社以後の参加作には偶然にもガイナックス時代の先輩が参加していた場合が多かった。『サクラ大戦』でアニメーションキャラクター設定を務めた守岡英行、『妄想代理人』で原画スタッフとして参加した中山勝一、『巌窟王』の監督前田真宏などの人たちは、松原と一緒に仕事をしてた先輩、あるいは同年輩アニメーターである。

主な参加作品

テレビアニメ

OVA

映画

ラジオドラマ

ゲーム

画集

関連項目

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