「本多会」の版間の差分
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本多初代は大勢の子分を抱えただけに、人一倍情誼に厚く渡世の親分としては政治的な考えのできない不器用な人物であり、財産も人のために多くを散じたというが関西を代表する大侠客であるという評価は高い。浅野大助が殺された事件の顛末はその性格を現している。浅野は名古屋で本多の旗を守っていたが喧嘩で殺される。暴れん坊だけに目にかけてきた浅野の死に本多初代の怒りを誰もが想像していた。<br>高松弥太郎(梅津会の顧問格で九州きっての暴れん坊)でさえ抗争事件が起こると見ており神戸へ自重するように手紙を送っている。本多は自宅に来た仲裁人を上に上げると丁寧な挨拶の後で「条件があります」とだけいうと「指はいりません。坊主になって世間にでなくてもいい。この喧嘩でケジメを取らされ寂しい思いをしてこれからの渡世を送る人間がでないように、それだけをお願いします」といったという。 |
本多初代は大勢の子分を抱えただけに、人一倍情誼に厚く渡世の親分としては政治的な考えのできない不器用な人物であり、財産も人のために多くを散じたというが関西を代表する大侠客であるという評価は高い。浅野大助が殺された事件の顛末はその性格を現している。浅野は名古屋で本多の旗を守っていたが喧嘩で殺される。暴れん坊だけに目にかけてきた浅野の死に本多初代の怒りを誰もが想像していた。<br>高松弥太郎(梅津会の顧問格で九州きっての暴れん坊)でさえ抗争事件が起こると見ており神戸へ自重するように手紙を送っている。本多は自宅に来た仲裁人を上に上げると丁寧な挨拶の後で「条件があります」とだけいうと「指はいりません。坊主になって世間にでなくてもいい。この喧嘩でケジメを取らされ寂しい思いをしてこれからの渡世を送る人間がでないように、それだけをお願いします」といったという。<ref>[[藤田五郎]]『実録東海の親分衆』青樹社1984年9月 ISBN 4791302923 </ref> |
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その後、実業の世界で大成功を収めている。 |
その後、実業の世界で大成功を収めている。 |
2008年8月4日 (月) 06:54時点における版
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本多会(ほんだかい)は、神戸市に本拠を置いた広域暴力団である。
昭和13年の成立
神戸大嶋組(大嶋秀吉組長)の四天王の一人本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成する[1]。なお、山口組も初代(山口春吉組長)・二代目(山口登組長)と大嶋初代と盃を交わしていたが二代目で独立している。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる[2]。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。
関西を山口組と二分
昭和25年、花興行を行ったことを契機として本多会を結成。数千の子分がいた。大幹部に28人衆とよばれる猛者を統率し、彼らが四国、中国地方に多くの子分を率いていたのは現在でも系譜としてよく知られている。また、関西を山口組と二分していた結果、「広島抗争」などの事件を本多会は起こしている。猪野健治は児玉誉士夫の東亜同友会はこの両者の対立で失敗したとしている。昭和38年、本多会長は跡目を平田勝市に譲る。この代目披露には大野伴睦も演説をしたというのは有名である。翌年5月には松葉会の会長である藤田卯一郎と意気投合し兄弟分の盃を交わしている。
解散の経緯
平田勝市は就任後、山口組との対決姿勢を出したのは事実でありこれが組内に不協和音を起こしたともいわれているが、実態は不明である。「第一次頂上作戦」もあり1965年に解散するが、解散の真意は側近であった前田勇(「新日本政治連盟」総帥)の著書にも書かれていない。
解散後、平田は右翼団体アジア大日本平和会(後日、「大日本平和会」)を立ち上げた。この反共活動に対しアメリカのジョン・フォスター・ダレスから感謝状が平田に渡されている。本多会の流れを汲む団体として、浅野会(名古屋)、親和会 (高松)、勝浦会、平井組、松山の郷田会系列、木下会などが知られている。
本多仁介
本多初代は大勢の子分を抱えただけに、人一倍情誼に厚く渡世の親分としては政治的な考えのできない不器用な人物であり、財産も人のために多くを散じたというが関西を代表する大侠客であるという評価は高い。浅野大助が殺された事件の顛末はその性格を現している。浅野は名古屋で本多の旗を守っていたが喧嘩で殺される。暴れん坊だけに目にかけてきた浅野の死に本多初代の怒りを誰もが想像していた。
高松弥太郎(梅津会の顧問格で九州きっての暴れん坊)でさえ抗争事件が起こると見ており神戸へ自重するように手紙を送っている。本多は自宅に来た仲裁人を上に上げると丁寧な挨拶の後で「条件があります」とだけいうと「指はいりません。坊主になって世間にでなくてもいい。この喧嘩でケジメを取らされ寂しい思いをしてこれからの渡世を送る人間がでないように、それだけをお願いします」といったという。[3]
その後、実業の世界で大成功を収めている。
歴代会長・最高幹部
幹部には黒幕としても名高い怪人黒崎房次(姫路)がいる。
脚注
- ^ 溝口敦『血と抗争 山口組三代目』(講談社 文庫 1998年10月)
- ^ 飯干晃一『山口組三代目〈怒涛篇〉』 角川書店 1989年9月 ISBN 4-146422-6
- ^ 藤田五郎『実録東海の親分衆』青樹社1984年9月 ISBN 4791302923